新宿伊勢丹に初バレンタインチョコ登場。私の成人式の年の話。ちっとも知らなかった。




2006ソスN1ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0912006

 道にはずむ成人の日の紙コップ

                           秋元不死男

語は「成人の日」で新年。いろいろな情景が想像できるが、あまりディテールを思い描かないほうがよいだろう。道を歩いていたら、どこからか「紙コップ」が跳ねながら転がってきた。それだけで十分だ。誰がどんな状況で投げ捨てたのかなどは、とりあえず句意には関係がない。作者が言いたいのは、この跳ねている紙コップに若さの一側面を見たということだけだからだ。すなわち、若さとはこのコップのように真っ白で何でも入れることができ、しかし他方ではいくらでも投げ捨てることもできる二面性を持っている。多くの可能性と、同時に多くの消費性とを併せ持つところが、若さという容器なのである。しかも、投げ捨てられてもなお跳ねているところが、遠く青春を去った作者にとっては、とても眩しく思われるのでもある。若さのただ中にあってはわからなかったことが、いまこうして捨てられた紙コップからでさえも、容易にわかってしまう切なさよ。と、作者はおのれの来し方をもちらりと想起して、あらためて紙コップを見つめ直しているのだ。ところで「成人の日」の制定時には一月十五日と決まっていたが、現在は第二月曜日へと動くようになった。年ごとに違う日付になるのはしっくりこない気がするが、2000年1月14日に急逝した辻征夫の場合は、変更になったおかげでお嬢さんの成人式に立ち会うことができたのだった。没後、親娘で撮った晴れ晴れとした記念写真を見せてもらったことがある。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0812006

 初場所のすまねば松の取れぬ町

                           石川星水女

語は「初場所」で新年。東京の松の内は、元日から七日までとするのが普通だ。対して関西などでは十四日ないしは十五日までと長い。ところが東京でも、初場所興行のある両国の町だけは別である。場所が終わるまでは「正月」だ、どんなもんだいと、無邪気に町の自慢をしている句だ。ちなみに今年は今日が初日だから、両国で松が取れるのは二十二日の夜ということになる。たしかに長い正月だ、たいしたもんだと、こういうめでたい句は褒めておくに限る。それに、相撲はいちばん正月に似合うスポーツだと思う。古式ゆかしい伝統を持っていることもあるけれど、何と言っても飲み食いをいわば前提にしたスポーツ観戦は相撲だけだからだ。束の間ながら、憂き世を忘れての殿様気分で楽しめるのが相撲なのである。ほとんど芝居見物と同じ気分で観戦でき、他のサッカーやらラグビーやらのように息をこらして見つめつづける必要もない。贔屓力士や人気力士が出てくるまでは、一杯やりながらのんびりと構えていればよいのである。こんなスポーツ観戦の仕方が、他にあるだろうか。もう少し言えば、相撲の勝敗には殺伐としたところが稀薄なのも正月的だ。もとより力士には並外れたパワーも必要だが、小さな土俵の上で決着をつけるのは、パワーにプラスされた技である。その意味でも元来相撲は演劇的なのであって、芝居見物の気分と通い合うのも、土俵と舞台の上には技を見せるという似た風が吹いているからだろう。とまれ、今場所も外国人力士の優勢は動きそうもない。べつに私は構わないが、正月気分からすると、もっと強い日本人力士の登場が待たれる昨今ではある。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 0712006

 限りなく降る雪何をもたらすや

                           西東三鬼

測史上、未曾有の豪雪だという。カラカラ天気の東京にあっては、新潟津南町の4メートルに近い積雪の様子などは想像を絶する。テレビが映像を送ってくるけれど、あんな画面では何もわからない。車が埋まる程度くらいまではわかるとしても、それ以上になると地上はただ真っ白なだけで、深さを示す比較物が見えないからだ。「雪との闘いですよ、他のことは何もできない」という住民の声のほうが、まだしも深刻な深さを指し示してくれる。映像も無力のときがあるというわけだ。掲句はおそらく戦後二年目の作と思われるが、「限りなく降る」というのは一種の比喩であって、とりわけて豪雪を詠んだ句ではあるまい。降り続く雪を見ながら、作者はその雪に敗戦による絶望的な状況を象徴させ、これから自分は、あるいは世の中はどうなっていくのかと暗澹とした気持ちになっているのだ。「何をもたらすや」の問いに、しかし答えは何もないだろう。問いが問いのままに、いわば茫然と突っ立っている格好だ。そしてこの句を昨今の豪雪のなかで思い出すとき、やはりこの問いは問いのままにあるしかないという実感がわいてくる。「実感」と言ったように、作句時の掲句はむしろ観念が勝っていたのとは違い、いまの大雪の状況のなかでは具体も具体、ほとんど写生句のように読み取れてしまう。といって私は、状況や時代が変われば句意も変わるなどとしたり顔をしたいわけじゃない。こういう句もまた、写生句としか言わざるを得ないときがあることに、ふと気がついたというだけの話である。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)




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