今日から三連休。名づけて「現代版・小正月」では如何。ごゆっくりお過ごしください。




2006ソスN1ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0712006

 限りなく降る雪何をもたらすや

                           西東三鬼

測史上、未曾有の豪雪だという。カラカラ天気の東京にあっては、新潟津南町の4メートルに近い積雪の様子などは想像を絶する。テレビが映像を送ってくるけれど、あんな画面では何もわからない。車が埋まる程度くらいまではわかるとしても、それ以上になると地上はただ真っ白なだけで、深さを示す比較物が見えないからだ。「雪との闘いですよ、他のことは何もできない」という住民の声のほうが、まだしも深刻な深さを指し示してくれる。映像も無力のときがあるというわけだ。掲句はおそらく戦後二年目の作と思われるが、「限りなく降る」というのは一種の比喩であって、とりわけて豪雪を詠んだ句ではあるまい。降り続く雪を見ながら、作者はその雪に敗戦による絶望的な状況を象徴させ、これから自分は、あるいは世の中はどうなっていくのかと暗澹とした気持ちになっているのだ。「何をもたらすや」の問いに、しかし答えは何もないだろう。問いが問いのままに、いわば茫然と突っ立っている格好だ。そしてこの句を昨今の豪雪のなかで思い出すとき、やはりこの問いは問いのままにあるしかないという実感がわいてくる。「実感」と言ったように、作句時の掲句はむしろ観念が勝っていたのとは違い、いまの大雪の状況のなかでは具体も具体、ほとんど写生句のように読み取れてしまう。といって私は、状況や時代が変われば句意も変わるなどとしたり顔をしたいわけじゃない。こういう句もまた、写生句としか言わざるを得ないときがあることに、ふと気がついたというだけの話である。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)


January 0612006

 戸をさして枢の内や羽子の音

                           毛 がん

田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)より、江戸元禄期の句.季語は「羽子(つき)」で新年。作者名の「毛がん」の「がん」は、糸偏に「丸」と表記する。「枢」は「とぼそ」と読み、戸の梁(はり)と敷居とにうがった小さな穴、転じて扉や戸口のこと。追い羽根の様子を詠んだ句は数多いが、掲句は羽根つきの音だけを捉えた珍しい句だ。おそらくは、風の強い日なのだろう。町を歩いていると、とある家の中から羽子をつく音が聞こえてきたと言うのである。ただそれだけのことながら、しかしここには、戸の内にあって羽根つきをしている女の子たちの弾んだ心持ちが、よく描出されている。風が強すぎて、とても表ではつけない。でも、どうしてもついて遊びたい。そこで戸を閉めた家の中の狭い土間のようなところで、ともかくもやっとの思いでついているのに違いない。そう推測して、作者は微笑している。……と私は読んだのだが、宵曲は「風の強い日など」としながらも、夜間の羽根つきと見ているようだ。「ようだ」としか言えないのは、解説にしきりに明治以降の灯火の話が出てくるからで、しかし一方では元禄期の灯火では羽根つきは望めないとも書いており、今ひとつ文意がはっきりしない。ただ「戸をさして枢の内」を、戸をしっかりと閉めた家の中と読めば、昼間よりも夜間とするほうが正しいのかもしれない。夜間の薄暗い灯火でつく羽子の音ならばなおさらのことだが、いずれにしても正月を存分に楽しみたい女の子の心持ちが伝わってきて、好感の持てる一句である。(清水哲男)


January 0512006

 蒼天の愁ひかすかに五日かな

                           小方康子

語は「五日」で新年。一月五日のこと。今日から、本格的な仕事始めの会社が多いだろう。まだ松の内とはいえ、これからは少しずつ日常が戻ってくる。作者はその感じを、昨日と変わらぬよく晴れた正月の空ながら、どこか「愁ひ」を含んでいるように見えると表現している。「青空」としないで「蒼天」と漢語調に詠んだのは、空に「愁ひ」を滲ませるためだろう。「青空」としたのではあまりにカラッとしすぎてしまい、「愁ひ」の湿り気を含ませる余地がないからである。ただし、この場合の「愁ひ」は、正月のハレの気分が遠ざかってゆく一抹の寂しさのことだから、「蒼天」はいささか大袈裟かもしれないとは思う。むろん、悪い句ではない。で、この気持ちを「青空」の表現の下でどうにかならないかと、しばらく考えてみたのだが、良い知恵は浮かばなかった。ここで話は句を離れ、少しく青空的になるが、独身のサラリーマン時代には仕事始めの日が待ち遠しくてたまらなかった。安アパートで電気ごたつにあたりながら本なんか読んでみても、人恋しさが募るばかりで、いっかな気分は晴れてこない。行きつけの飲み屋も閉っているし、テレビなんて贅沢品は持っていないし、大いに時間を持て余したものだった。だから仕事始めの日には、喜び勇んでの早朝出社とはあいなり、したがってこの日の空は「青空」以外のなにものでもなかったですね。周辺に家族や友人知己があってこそ、いわゆる正月気分は保たれるのだと、思い知らされたことでした。俳誌「未来図」(2006年1月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます