芥川直木賞候補作、すべて未読。著者名を知ってるのは一人。これでも元文芸誌編集者。




2006ソスN1ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0612006

 戸をさして枢の内や羽子の音

                           毛 がん

田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)より、江戸元禄期の句.季語は「羽子(つき)」で新年。作者名の「毛がん」の「がん」は、糸偏に「丸」と表記する。「枢」は「とぼそ」と読み、戸の梁(はり)と敷居とにうがった小さな穴、転じて扉や戸口のこと。追い羽根の様子を詠んだ句は数多いが、掲句は羽根つきの音だけを捉えた珍しい句だ。おそらくは、風の強い日なのだろう。町を歩いていると、とある家の中から羽子をつく音が聞こえてきたと言うのである。ただそれだけのことながら、しかしここには、戸の内にあって羽根つきをしている女の子たちの弾んだ心持ちが、よく描出されている。風が強すぎて、とても表ではつけない。でも、どうしてもついて遊びたい。そこで戸を閉めた家の中の狭い土間のようなところで、ともかくもやっとの思いでついているのに違いない。そう推測して、作者は微笑している。……と私は読んだのだが、宵曲は「風の強い日など」としながらも、夜間の羽根つきと見ているようだ。「ようだ」としか言えないのは、解説にしきりに明治以降の灯火の話が出てくるからで、しかし一方では元禄期の灯火では羽根つきは望めないとも書いており、今ひとつ文意がはっきりしない。ただ「戸をさして枢の内」を、戸をしっかりと閉めた家の中と読めば、昼間よりも夜間とするほうが正しいのかもしれない。夜間の薄暗い灯火でつく羽子の音ならばなおさらのことだが、いずれにしても正月を存分に楽しみたい女の子の心持ちが伝わってきて、好感の持てる一句である。(清水哲男)


January 0512006

 蒼天の愁ひかすかに五日かな

                           小方康子

語は「五日」で新年。一月五日のこと。今日から、本格的な仕事始めの会社が多いだろう。まだ松の内とはいえ、これからは少しずつ日常が戻ってくる。作者はその感じを、昨日と変わらぬよく晴れた正月の空ながら、どこか「愁ひ」を含んでいるように見えると表現している。「青空」としないで「蒼天」と漢語調に詠んだのは、空に「愁ひ」を滲ませるためだろう。「青空」としたのではあまりにカラッとしすぎてしまい、「愁ひ」の湿り気を含ませる余地がないからである。ただし、この場合の「愁ひ」は、正月のハレの気分が遠ざかってゆく一抹の寂しさのことだから、「蒼天」はいささか大袈裟かもしれないとは思う。むろん、悪い句ではない。で、この気持ちを「青空」の表現の下でどうにかならないかと、しばらく考えてみたのだが、良い知恵は浮かばなかった。ここで話は句を離れ、少しく青空的になるが、独身のサラリーマン時代には仕事始めの日が待ち遠しくてたまらなかった。安アパートで電気ごたつにあたりながら本なんか読んでみても、人恋しさが募るばかりで、いっかな気分は晴れてこない。行きつけの飲み屋も閉っているし、テレビなんて贅沢品は持っていないし、大いに時間を持て余したものだった。だから仕事始めの日には、喜び勇んでの早朝出社とはあいなり、したがってこの日の空は「青空」以外のなにものでもなかったですね。周辺に家族や友人知己があってこそ、いわゆる正月気分は保たれるのだと、思い知らされたことでした。俳誌「未来図」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


January 0412006

 門松や黒き格子の一つゞき

                           呂 風

戸の正月風景も見ておこう。例によって柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)からの句で、元禄期の町の様子だ。近年の東京で門松を立てる家は珍しくなってしまったが、江戸の町ではこのようにどの家でも立てていた。正月を寿ぐ歌の文句にもあるけれど、まさに「♪門松立てて門ごとに……」である。ところで私は掲句を解釈する際に、「黒き格子」とあるので、どこか粋筋の町の様子を思い浮かべてしまったが、宵曲の解説を読んで大間違いだとわかった。「黒き」を塗り格子と読んだのが失敗で、これは宵曲によれば格子が古びて黒っぽくなっている感じを詠んでいるのだという。私は格子戸が一般的だったころの町の風景に思いがいたらなかったわけで、古い句を読むときには現代感覚を捨てなければならない。となれば、普段は目立ちもしない格子つづきの家並みが、家ごとの門松の存在によってにわかに淑気を帯び、とてもおめでたい気分だという句意になる。なんでもない普通の小さな家々の「一つゞき」が、ぱっと輝くように見えたのが昔のお正月であった。一陽来復の実感がある。最後に,宵曲は書いている。「堂々たる大きな門構でなければ、正月らしく感ぜぬ人たちは、こういう句のめでたさとは竟(つい)に没交渉であるかもしれぬ」。この言は、別の意味で現代人にも通用しそうである。(清水哲男)




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