幼稚園から義務教育と自民公明。なんでもかでも教育問題だと思ったら、大間違いだぞ。




2006ソスN1ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0212006

 二日はや雀色時人恋し

                           志摩芳次郎

語は「二日」で新年。正月二日のこと。俳句を覚えたてのころ、つまり中学生のころ、「二日」が季語と知って驚いた。子供にとっての正月二日はとても退屈な日でしかなかったので、何故そんな日をわざわざ季語にする必要があるのかと、腹立たしくさえ思ったものだ。元日ならお年玉ももらえるし、年賀状もちらほらと来るし、それなりのご馳走にもありつけたので、家でじっとしてるのも苦ではなかった。が、それも一日が限度。二日になると、もういけない。年賀状の配達もなかったし、新聞も休刊日で,まったく刺激というものがない。掲句はむろん大人の句だけれど、同じように無性に「人恋し」くなって、友人の誰かれに会いたくなってしまう。でも、それは禁じられていた。正月早々にのこのこ他の家に遊びに行くと、迷惑になるという理由からであった。そんな「二日」が、なんで季語なんかになってるんだよ。と思っているうちにわかってきたのは、多くの子供には無関係だけれど、ことに昔の大人の社会では、この日が仕事始めの日だということだった。初荷、初商い、それに伴って活気づく町。たしかに元日とは違う表情を持った日ということで、なるほど季語化したのもうなずけると合点がいったのだった。といっても、なかには作者のような無聊をかこつ大人も大勢いるわけで、逆にこの立場からしても「二日」は特別な日と言えば言えるのではなかろうか。なお「雀色時」は、あたりが雀の羽根のような色になることから、日暮れ時を言った。洒落てますね。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0112006

 塗椀のぬくみを置けり加賀雑煮

                           井上 雪

語は「雑煮」で新年。この句、なんといっても品格がよろしい。雑煮の大きな「塗椀(ぬりわん)」を置いたわけだが、それを「ぬくみ」を置くと婉曲に、しかし粋に表現しているところ。そして「加賀雑煮」と締めた座りの良さ。句の座りももちろんだが、雑煮の椀もまた見事に安定している。ゆったりとした正月気分と同時に、質素な加賀雑煮に新年の引き締まる思いが共存している句だ。一般に加賀料理というと豪勢な感じを受けるが、加賀雑煮だけはすまし仕立てで、具は刻み葱と花鰹のみのシンプルなものだという。加賀百万石の権勢下で、武家も庶民も正月の浮かれ気分を自らいましめるための知恵の所産だろう。このように、雑煮は地方によっても違うし、その家ごとの流儀もある。我が家のように、関東風と関西風との両方を作ったりする家庭もけっこうあるのではなかろうか。子供の頃から慣れ親しんだ雑煮でないと、なんだか正月が来た気分がしないからだ。考えてみれば、雑煮は大衆化していない唯一の料理だ。たいていの料理はレストランや食堂が大衆化に成功してきたが、雑煮だけはそれぞれの家庭で食べるのが本流だから、どんなに美味しいものでも、簡単には表に出て行かないのである。すなわち、雑煮だけは味的鎖国状態のまま、それぞれの味がそれぞれの家庭で継承されてきたというわけだ。さて、新しい年になりました。お雑煮をいただきながら、年頭の所感を。……ってのは真っ赤な嘘でして、例年のようにぼんやりと過ごす時間を楽しむことにいたします。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 31122005

 除夜の鐘天から荒縄一本

                           八木忠栄

語は「除夜の鐘」。今年は、この力強い句で締めくくろう。余白師走句会(2005年12月17日)に出句された作品だ。除夜の鐘が鳴りはじめた。人はこのときに、それぞれの思いのなかで「天」を振り仰ぐ。と、天よりするすると「荒縄が一本」下りてきた。むろんイメージの世界の出来事ではあるが、大晦日の夜の感慨のなかにある人ならば、具体的に荒縄が下りてきたとしても、べつだん奇異にも思わないだろう。作者もまた、一本のこの荒縄をほとんど具象物として描き出しているように思われる。そして、そんな荒縄を見上げる人の思いは一様ではないだろう。ある人は天の啓示のようにまぶしく見つめるかもしれないし、またある人は「蜘蛛の糸」のカンダタのように手を伸ばそうとするかもしれない。年を送るその人の胸中がさまざまに反応するわけで、ミもフタもないことを言うようだが、この荒縄に対する姿勢はそのままその人の来し方を象徴することになる。で、かくいう私は、どうするだろうか。きっとポケットに手を入れたまま、茫然と眺めることになるのだろう。体調不良もあったけれど、それほどに何事につけても消極的で傍観的な一年だったような気がする。読者諸兄姉は、如何でしょうか。さきほど冒頭で一度鳴った(鳴らない方もあります、ごめんなさい)のは、知恩院の鐘の音です。ゆっくりと想像してみてください。では、一年間のご愛読に感謝しつつ、新しい年を迎えることにいたします。どうか、みなさまに佳き新年が訪れますように。(清水哲男)




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