雪だるまホワイトクリスマスどころじゃない日本列島ですが、Bing Crosbyは聴きたくて…。




2005ソスN12ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 24122005

 炬燵に賀状書くや寝たる父の座に

                           橋本風車

語は「賀状書く」で冬。この三連休を利用して、賀状を書いている方も多いだろう。作者は先に寝てしまった「父の座」で書いている。おそらくそれまでは、父親がそこで賀状を書いていたのだと思う。昔は筆で書くのが普通だったから、父の座には筆も硯も墨もそのまま置かれていたので、拝借して書くことにしたのだ。硯などを自分の座に一つ一つ移動させるよりも、こちらがそこに移動したほうが手っ取り早い。そんな軽い気持ちで父の座に坐ってみたところが、なんとなく家長になったような、厳粛な気持ちになったのである。その座で筆を持ち賀状を書いていると、特別にあらたまった感じになり、おのずから文面も引き締まったものになったに違いない。この感じは、わかります。会社でふざけて部長の椅子に坐ってみたりしたときの、ああいう感じに通じるものがあって、思い当たる読者もおられるでしょう。賀状を筆で書くといえば、私も小学生時代にはじめて書いたときがそうだった。きっかけは私くらいの年代の者はみな同じで、お年玉つきの年賀はがきが発行された(1949年)ことによる。先生の指導を受け、なにやら難しい文章を筆で書いたときには、一挙に大人の仲間入りをした気分であった。このことについては「俳句」(2006年1月号)ではじまった池田澄子の連載「あさがや草紙」で詳しく触れられているので、ぜひお読みいただきたい。昨今の俳句誌のエッセイのなかでは際立った達意の文章で、「俳句」は久しぶりに次号の待ち遠しい雑誌となりそうである。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


December 23122005

 数へ日の交番に泣く女かな

                           菅野忠夫

語は「数へ日(かぞえび)」で冬。「♪もういくつ寝るとお正月」と、年内も押しつまって、指で数えられるほどになったころのこと。年内もあと八日、今日あたりから使える季語だ。さて、掲句。「交番」のイメージは各人各様ではあろうが、あまりお世話にはなりたくないところだ。そんな意識があるからか、交番の前を通りかかると、なんとなく中を見てしまう。とくに警察官以外の人のいる気配がするときには、立ち止まって眺めるほどではないにしても、少し注意して観察する目になる。何だろうか、何かあったのかと、野次馬根性も大いに働く。たいていは誰かが道を尋ねていたりするくらいのものだが、ときには句のような情景を見かけることもある。それこそ、何があったのか。「女」がひとり、明らかに泣いている。雑踏のなかで大切なお金をそっくりすられでもしたのか、あるいは何か揉め事を訴えてでもいるのだろうか。むろん作者は、泣く女を瞥見して通り過ぎただけだから、想像だけは膨らんでも事実はわからない。わからないので、余計に気になる。この「数へ日」の忙しいときに、交番で泣くとは余程のことがあったにちがいない。あの人には、明るいお正月もないだろうな、気の毒に。等々、家に戻っても、ふっと泣いている情景を思い出す。年の瀬ならではの人情もからんだ、ちょっと短編小説のような味のする句だ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


December 22122005

 日は午後に冬至の空のさゝ濁り

                           石塚友二

日は「冬至」。太陽が最も北半球から遠ざかる日で、一年中でいちばん日が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」と言い習わされ、この日から冬の寒さがはじまると言われてきたが、今年はもう真冬が来てしまっている。掲句の「空」は、この時期に晴れることの多い東京あたりのそれだろう。今日も良く晴れてはいるが、午後になってきて見上げると、少し曇ってきたような……と言うのである。「さゝ濁り」は一般的には「小濁」と漢字表記し、川の水などがちょっと濁っている様子を指す。この句の場合には、「さゝ」は「小」よりも「些些」と当てるほうがぴったり来るかもしれない。「さゝ濁り」と見えるのは、むろん冬至を意識しているからだ。間もなく太陽が沈んでしまう今日の青空に、かすかに雪空めいた濁りを感じたという繊細な描写が生きている。はじめ読んだときには万太郎の句かなと思ったほどに、繊細さに加えてどこか江戸前風な粋の味わいもある。それはそれとして、冬至の時期は多くの人が多忙だから、なかなかこうした気分にはなれないのが普通だろう。それどころか、今日が冬至であることにすら気がつかない年もあったりする。私などは何日かして、あっ過ぎちゃったと気づくことのほうが多かったと思う。幸いと言おうか何と言おうか、今年の仕事は一昨日ですべて終わったので、今年の今日こそはゆったりと「さゝ濁り」を眺められそうである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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