今年最後の仕事は、今日のTOKYO-FMでの収録です。愚痴ばかりが出そうで気をつけねば。




2005年12句(前日までの二句を含む)

December 20122005

 まいにちが初めての年暮れにけり

                           千葉皓史

語は「年暮る」、「年の暮」に分類。毎年訪れてくる年の暮れだが、しかし、ここに至る「まいにち」はいつも「初めて」であった。と、なんでもない普通のことを普通に詠んだだけのように写るかもしれないが、なかなかどうして、面白い発想である。詠まれている時期は年の暮れなのだが、この句には歳末の感慨だけではなく、来るべき新年に向けての期待感や抱負が含み込まれているからだ。むしろ、後者の要素が大きいくらいかもしれない。年の暮れにあたっての反省として、毎日が新しい日々だったわけだが、それらの日々を常に新鮮な気持ちで生きてきたろうかということがある。そう反省してみると、「まいにちが初めて」という意識をいつも持っていたわけではなかった。だから、来年こそは、この誰にでも当たり前のことをきちんと意識して生きていこうと、作者の心はもう半ば以上は新年に飛んでいる。したがって掲句は、年末の句でありながら新年の句だとも素直に読めてしまう。考えてみれば、年の瀬の意識のなかには、誰でも新しい年へのそれが滲んでいるはずである。正月の句に「まいにちが初めて」といった表現はよく見かけるけれど、それを年の暮れに言ったところがとても珍しい。さて今年も旬日で暮れていきますが、個人的にも社会的にも、どうも新しい年にはあまり期待できそうもない気がしてなりません。せめて「まいにちが初めて」の意識だけは持ちつづけたいものと思っております。「2006・俳句研究年鑑」所載。(清水哲男)


December 19122005

 かじかみて酔を急ぐよ名もなき忌

                           土橋石楠花

語は「かじかむ(悴む)」で冬。「名もなき忌」とあるから著名な人の通夜、ないしは葬儀ではない。また、とくに親しい人のそれでもない。おそらくは同じ町内に住み、道で顔を合わせれば会釈するくらいの淡い付き合いだった人のそれだろう。いまの都会ではそういう風習は絶えてしまっているが、昔は町内で誰かが亡くなると、通知がまわってきて出かけたものである。したがって、弔問はほんの儀礼的なものだ。よく知らない人なのだから。哀しみの感情もわいてはこない。ひどく冷え込んだ日で身体は寒いばかりであり,そこで作者は浄めの酒を普段よりも多めにいただいて「酔を急」いでいるというわけだ。「酔を急ぐよ」が寒さばかりではなく、作者の個人との距離の遠さを暗示していて効果的だ。と読み流してみると、最後に据えられた「名もなき忌」を誤解する読者もいそうなので、念のために書いておくと,これは作者の死生観の一端を述べたもので、決して無名だった故人をおとしめているのではない。むしろ無名に生き無名のままに死に、そうした死後のことはかくのごとくに質素であるべしと言っている。作者の土橋石楠花は十七歳で「鹿火屋(かびや)」を主宰していた原石鼎の門を敲き、今年の夏に亡くなるまで一貫して「鹿火屋」とともに歩きつづけた。2005年7月15日没。享年八十八。句歴七十年余.それなのにこの人には句集が一冊あるだけだ。このことだけを取ってみても,いかに石楠花という俳人が名利とは無縁であったかがうかがわれる。自分の死を詠んだ句に「ぽつかりと吾死に炎帝を欺かむ」があり、まさにその通りになった。句集『鹿火屋とともに』(1999)所収(清水哲男)


December 18122005

 門々や子供呼込雪のくれ

                           野 童

こ半世紀ほどで大きく変わったことの一つに、こうした子供の情景がある。江戸は元禄期の句だが、この情景には、私の世代以前から十年ほど後の世代くらいの者であれば、みなシンパシーを覚えるだろう。懐かしい情景だ。雪の日とは限らないけれど、夕方になるとあちこちから表で遊び呆けている子供たちを「呼(び)込(む)」声が聞こえてきたものだった。「ご飯ですよーっ」、「もう暗いから帰っておいで」など。ところが、遊びに夢中になっていると、呼び込む声は聞こえても、そう簡単には帰りたくない。「おい、お前。帰って来いってさ」と仲間から言われても、「まだ大丈夫だよ、平気だよ」と愚図愚図している。そのうちに渋々と一人が帰り、また別の一人が遊びの輪を離れていきと、毎夕が同じことの繰り返しであった。句の場合も同様の情景であるが、ことに「雪のくれ」だから、戸外の寒さと子供の元気さとが想起されて微笑ましい。そしてさらには、それぞれの家で子供を待っている暖かい食卓にも思いが及び、句の「雪のくれ」という設定がいっそう生きてくるのである。この句を紹介している柴田宵曲も、このことを頭においてか、次のように書いている。「平凡な句のようでもある。しかし一概にそういい去るわけにも行かないのは、必ずしも少年の日の連想があるためばかりとも思われぬ」。寒い雪の日の夕ぐれと暖かい家庭との暗黙の取り合わせによる、庶民的幸福の情景。句の主題は、ここにあるような気がする。『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます