国会証人喚問。責任は誰にあるのか。「金がすべて」の世の中を作った全員にあるのさ。




2005ソスN12ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 15122005

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く

                           飯田蛇笏

語は「雪」。表では、しんしんと雪が降りつづいている。暗くならないうちにと、作者がランプの火屋(ほや)を掃除している図だ。火屋の形状も物理的には一種の「玉」ではあるが、句の「玉」は夜中に光り輝く珠玉のようなものとして詠まれている。息を吹きかけながら、キュッキュッとていねいに拭いている。深い雪に閉じ込められる身にとっては、夜の灯りはなによりの慰めだから、ていねいさにも身が入るのだ。押し寄せる白魔にはあらがう術もないけれど、このときに最後の希望のように火屋を扱っている作者の自然な感情は美しい。子供のころ、我が家もランプ生活だったので、この感情のいくばくかは理解できる。私は火屋の掃除係みたいなものだったので、やはり「玉のごとくに」拭いていた。ただ、作者の拭いた時代は戦前のようだから、「玉」もしっかりしていただろう。句全体から、なんとなくそれが感じられる。ひるがえって私の時代は敗戦直後という悪条件があり、火屋のガラスはみな粗悪品だった。なにかの拍子に、すぐに割れてしまった。これが、実に怖かった。我が家には火屋を買い置きしておく経済的な余裕がなかったので、割れたとなると、一里の雪の道を歩いて村に一軒のよろず屋まで買いにいかねばならない。慎重に拭いてはいたのだが、それでも割れることは何度もあった。親には叱られ,暗くなりかけた雪道に出て行くあの哀しさは忘れられない。生活のための「玉」の貴重さを、掲句から久しぶりに思い出されたのだった。私の暮らしていた山陰地方は,今日も雪の予報である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 14122005

 馬売りて墓地抜けし夜の鎌鼬

                           千保霞舟

語は「鎌鼬(かまいたち)」で冬。むろん私には経験はないが、昔からよく聞いてきた。不思議なことがあるものだ。根元順吉の解説から引いておく。「突然、皮膚が裂けて鋭利な鎌で切ったような切り傷ができる現象。昔は目に見えないイタチのしわざと考えられていたところから、このようにいわれたというが、他方、風神が太刀(たち)を構える『構太刀』から由来したという説もある。この発生は地域性があるらしく、越後(えちご)(新潟県)では七不思議の一つに数えられている。/語源はともかくとして、現在もこのような損傷を受ける人がいるので、この現象は否定できない」。要するに、何かのはずみで空気中に真空状態ができ、そこに皮膚が触れると切れてしまうらしいのだ。当然ながら、昔の人はこれを妖怪変化の仕業と考えた。掲句は道具立てが揃いすぎている感もあるが、「鎌鼬」にやられても仕方がない状況ではある。なにせ藁の上から育て上げた愛馬を他人に売り渡し、後ろめたくも寂しい思いで通りかかったのが夜の墓地とくれば、何か出てこないほうがおかしい。……と、びくついているところに、急に臑のあたりに痛みが走ったのだろう。「わっ、出たっ」というわけだ。実際に怪我をしたのかどうかはわからないけれど、咄嗟に「鎌鼬」だと(信じてしまったと)詠んだところに、この句の可笑しいような気の毒なような味がよく出ている。池内たけしに「三人の一人こけたり鎌鼬」があるが、こちらはまったくの冗談口だろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 13122005

 凍鶴のほとりの土の雀かな

                           中村三山

語は「凍鶴(いてづる)」で冬,「鶴」に分類。寒い日の鶴は、凍りついたように身じろぎもせず、曲げた首を自分の翼深く埋めて立っている。かたや、周辺(ほとり)の雀たちは餌を求めて活発だ。最近、澁谷道さんから随想集『あるいてきた』(2005・私家版)をおくっていただき、なかの「幻のひと三山」で、この句が紹介されていた。引用しておく。「『ほとりの土』という言葉のはたらきが一句にどれだけの重みを与えていることか。凍鶴を主人公に置きながらそれについては触れずに、『ほとりの土の雀』を詠嘆して、凍鶴の存在感を不動のものにしている。なんというまなざしの冴えた優しさ、隙のない表現であろう。作者の心根の深さこまやかさが、わたくしのこころにヒタ、と貼りつき剥がれない」。これ以上の鑑賞をつけくわえる必要はないだろうが、たった十七文字でこれほどの「心根の深さこまやかさ」を表現できるとは驚きだ。実は私も知らなかったのだが、作者の中村三山は昭和初期に虚子に認められたのだが、水原秋桜子が「ホトトギス」を離脱する際に強く「馬酔木」への参加を求められ、懊悩の果てに両誌への出句を止めてしまった。その後、いわゆる京大俳句事件では起訴猶予になったものの、そこで俳句の筆を折り、戦後になってもついに作句することはなかったという。「幻のひと」と言われる所以だが、あくまでもみずからの心根に忠実だった人柄がしのばれる。澁谷さんの文章に二十句ほど紹介されているので、機会を見て取り上げていきたいと思う。『中村三山遺句集』(1983)所収。(清水哲男)




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