TOEFLとTOEICが、スピーキングなど実践重視に。日本語のテストとセットでやるべきだ。




2005ソスN12ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 14122005

 馬売りて墓地抜けし夜の鎌鼬

                           千保霞舟

語は「鎌鼬(かまいたち)」で冬。むろん私には経験はないが、昔からよく聞いてきた。不思議なことがあるものだ。根元順吉の解説から引いておく。「突然、皮膚が裂けて鋭利な鎌で切ったような切り傷ができる現象。昔は目に見えないイタチのしわざと考えられていたところから、このようにいわれたというが、他方、風神が太刀(たち)を構える『構太刀』から由来したという説もある。この発生は地域性があるらしく、越後(えちご)(新潟県)では七不思議の一つに数えられている。/語源はともかくとして、現在もこのような損傷を受ける人がいるので、この現象は否定できない」。要するに、何かのはずみで空気中に真空状態ができ、そこに皮膚が触れると切れてしまうらしいのだ。当然ながら、昔の人はこれを妖怪変化の仕業と考えた。掲句は道具立てが揃いすぎている感もあるが、「鎌鼬」にやられても仕方がない状況ではある。なにせ藁の上から育て上げた愛馬を他人に売り渡し、後ろめたくも寂しい思いで通りかかったのが夜の墓地とくれば、何か出てこないほうがおかしい。……と、びくついているところに、急に臑のあたりに痛みが走ったのだろう。「わっ、出たっ」というわけだ。実際に怪我をしたのかどうかはわからないけれど、咄嗟に「鎌鼬」だと(信じてしまったと)詠んだところに、この句の可笑しいような気の毒なような味がよく出ている。池内たけしに「三人の一人こけたり鎌鼬」があるが、こちらはまったくの冗談口だろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 13122005

 凍鶴のほとりの土の雀かな

                           中村三山

語は「凍鶴(いてづる)」で冬,「鶴」に分類。寒い日の鶴は、凍りついたように身じろぎもせず、曲げた首を自分の翼深く埋めて立っている。かたや、周辺(ほとり)の雀たちは餌を求めて活発だ。最近、澁谷道さんから随想集『あるいてきた』(2005・私家版)をおくっていただき、なかの「幻のひと三山」で、この句が紹介されていた。引用しておく。「『ほとりの土』という言葉のはたらきが一句にどれだけの重みを与えていることか。凍鶴を主人公に置きながらそれについては触れずに、『ほとりの土の雀』を詠嘆して、凍鶴の存在感を不動のものにしている。なんというまなざしの冴えた優しさ、隙のない表現であろう。作者の心根の深さこまやかさが、わたくしのこころにヒタ、と貼りつき剥がれない」。これ以上の鑑賞をつけくわえる必要はないだろうが、たった十七文字でこれほどの「心根の深さこまやかさ」を表現できるとは驚きだ。実は私も知らなかったのだが、作者の中村三山は昭和初期に虚子に認められたのだが、水原秋桜子が「ホトトギス」を離脱する際に強く「馬酔木」への参加を求められ、懊悩の果てに両誌への出句を止めてしまった。その後、いわゆる京大俳句事件では起訴猶予になったものの、そこで俳句の筆を折り、戦後になってもついに作句することはなかったという。「幻のひと」と言われる所以だが、あくまでもみずからの心根に忠実だった人柄がしのばれる。澁谷さんの文章に二十句ほど紹介されているので、機会を見て取り上げていきたいと思う。『中村三山遺句集』(1983)所収。(清水哲男)


December 12122005

 ここに居るはずもないのに冬の夜

                           臼井昭子

語は「冬の夜」。寒い夜の微妙な心理状態を詠んだ句だが、誰にも思い当たる体験は何度かあるだろう。たとえば忘年会のような、何かの会合の流れだろうか。皆と別れるタイミングを失っているうちに、気がつけば「居るはずもない」ところに自分がいる。家を出てくるときには、考えもしなかったような遠い場所だったり、あるいは誰かの住まいだったりと……。流行の言葉を使えば、いま作者の「居る」ところは「想定外」の場所なのである。しかも、夜はだんだん更けてきて、寒気も強まってきたようだ。この暗くて寒い夜道を、これから一人で帰るのかと思うと、心細さと不安とが入り混じってきて、とてももう陽気にふるまってはいられない気分だ。ああ、あのときにさっさと先に帰っておけばよかったのになどと、じわり後悔の念もわいてくる。これが「冬の夜」でなければ、だいぶ気分は違うはずだ。「春の夜」ならむしろ楽しいかもしれず、夏ならば家に帰っても寝苦しいだけと割り切れそうだし,秋だといささかの感傷に浸る余裕くらいはあるだろう。しかし、冬の夜にはそうはいかない。寒い夜道を肩をすぼめて戻るよりも、暖かい部屋にいてテレビでも見ていたほうが快適に決まっている。失敗したなあと思いつつも、一方では作者はなおその場を去り難く思ってもいるようだ。ここがまた、冬の夜のもたらす雰囲気の不可思議な一面である。俳誌「面」(第104号・2005年12月)所載。(清水哲男)




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