知りたくもない事件がつづく。景気が上向きと強弁しようが、こんな世の中じゃねえ…。




2005ソスN12ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 07122005

 葱白く洗ひたてたるさむさ哉

                           松尾芭蕉

語は「さむさ(寒さ)」で冬。「葱」も冬の季語だが、掲句では「さむさ」がメインだ。なお、この句の「葱」は「ねぶか」と読む(『芭蕉俳句集』岩波文庫)。「ねぶか(根深)」は、白い部分の多い関東の葱で、なかには緑2に対して白8という極端な葱もあったという。さて、つとに有名なこの句は巧いとは思うけれど、あまり良い句だとは思わない。当今の句会に出しても点数は入りそうだが、よく読むと実感の希薄な句なので、ぶっちぎりの一句というわけにはいかないだろう。ミソは、寒さの感覚を視覚的な「白」で伝えたところだ。なるほど、白は寒さを連想させるし、その白が真っ白になるまでの寒い作業も思われて、句のねらいはよくわかる。元禄期の俳句としては、この白い葱の比喩は相当に新しかったにちがいない。しかもわかりやすいし、巧いものである。だが、問題は残る。端的に言えば、この句には「さむさ」の主体が存在しないのだ。寒がっているのは、いったい誰なのだろうか。作者はちっとも寒そうではないし、かといって他の誰かというのでもない。好意的に考えれば、ここで芭蕉は「寒さにもいろいろありますが、こんな寒さもありますよね」と、寒さのカタログのうちの一つを提出してみせているのかもしれない。でも、だとしたら、「さむさ哉」の詠嘆は大袈裟だ。おそらく芭蕉は、寒さの感覚を葱の白さに託すアイディアに惚れ込みすぎて、肝心の寒さの主体を失念してしまったのではなかろうか。私には、作者の「どうだ、巧いだろう」という得意顔がちらついて、嫌みとも思える。おのれの比喩に酔う。よくあることではあるけれど。(清水哲男)


December 06122005

 熊を見し一度を何度でも話す

                           正木ゆう子

語は「熊」で冬。冬眠するので、この季節の熊は洞穴にひそみ姿を現さない。では、何故冬の季語とされているのだろうか。推測だが、活動が不活発な冬をねらって、盛んに熊狩りが行われたためだと思う。さて、掲句。これは人情というものだ。猟師などはべつにして、滅多に見られない熊と遭遇した人は、誰彼となくその体験を話したくなる。近年では住宅街に出没したりもするから、そんな意外性もあって、最初のうちは聞く人も真剣に耳を傾けてくれるはずだ。だが、調子に乗って何度も話しているうちに、やがて周囲は「また熊か」と鼻白むようになってくるが、話す当人は一向に気づかず「何度でも」話したがるという可笑しさ。そんな状況にある人を、作者は微笑して見ている図だ。熊の目撃者に限らずよくある話だが、こうして句に詠まれてみると、読者は「待てよ、自分も同じような話を人にしているかもしれない」と、ちょっぴり不安になるところもあって面白い。そして、もう一つ。この人はおそらく、生涯この話をしつづけるのだろうが、そのうちに時間が経つにつれて、話にも尾ひれがつきはじめるだろう。熊の大きさは徐々に大きくなり、コソコソと逃げ去ったはずが互いに睨み合った話になるなど、どんどん中味は膨らんでゆく。これは当人が嘘をつこうとしているのではなくて、実際の記憶の劣化とともに、逆に熊に特長的な別の要素で記憶を補おうとするからに違いない。つまり、記憶はかくして片方では痩せ、もう片方では太りつづけるのである。掲句からはそんなことも連想されて、それこそ微笑を誘われたのだった。「俳句研究」(2005年12月号)所載。(清水哲男)


December 05122005

 赤城山から続くもみぢの草紅葉

                           青柳健斗

語は「草紅葉」で秋。小さな名もない草々も紅葉する。美しい句だ。心が晴れる。この句の良さは、まず日常的な自分の足下から発想しているところだ。紅葉は高い山からだんだん麓に降りてくるので、たいていの句はその時間系にしたがって詠まれてきた。すなわち、作者の目は高いところから低いところへと、紅葉を追って流れ降りるというわけだ。が、掲句は違う。最初は,逆から発している。ふと足下の草が紅葉していることに気づき、目をあげてみれば、その紅はどこまでもずうっと続いていて、果てははるか彼方の赤城山にまで至っている。そこでもう一度、作者の目は赤城山から降りてきて、足下の草紅葉に辿り着いたのである。句では前半の目の動きは省略されており、後半のみが描かれているから、多くの従来の句と同じ時間系で詠まれたものと間違えやすい。しかし、よく読めば、足下から山へ、そして山から足下へと、この視線の往復があってこその句であることがわかってくるはずだ。それがわかったときに、同時に作者の立つ関東平野の広大さも想起され、比べてとても小さな草紅葉に注がれた作者の優しいまなざしがクローズアップされて、句は美しく完結するのである。こうした往復する視線で描かれた紅葉の句は、珍しいのではなかろうか。類句がありそうでいて、無さそうな気がする。上州赤城山。何度も見ているが、そういえば紅葉の季節は知らないことに、掲句を読んで気がついた。俳誌「鬣 TATEGAMI」(第17号・2005年11月)所載。(清水哲男)




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