寒い夜には気の利いた飲み屋で一杯。といきたいところだが良い飲み屋が近所にはない。




2005ソスN12ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 06122005

 熊を見し一度を何度でも話す

                           正木ゆう子

語は「熊」で冬。冬眠するので、この季節の熊は洞穴にひそみ姿を現さない。では、何故冬の季語とされているのだろうか。推測だが、活動が不活発な冬をねらって、盛んに熊狩りが行われたためだと思う。さて、掲句。これは人情というものだ。猟師などはべつにして、滅多に見られない熊と遭遇した人は、誰彼となくその体験を話したくなる。近年では住宅街に出没したりもするから、そんな意外性もあって、最初のうちは聞く人も真剣に耳を傾けてくれるはずだ。だが、調子に乗って何度も話しているうちに、やがて周囲は「また熊か」と鼻白むようになってくるが、話す当人は一向に気づかず「何度でも」話したがるという可笑しさ。そんな状況にある人を、作者は微笑して見ている図だ。熊の目撃者に限らずよくある話だが、こうして句に詠まれてみると、読者は「待てよ、自分も同じような話を人にしているかもしれない」と、ちょっぴり不安になるところもあって面白い。そして、もう一つ。この人はおそらく、生涯この話をしつづけるのだろうが、そのうちに時間が経つにつれて、話にも尾ひれがつきはじめるだろう。熊の大きさは徐々に大きくなり、コソコソと逃げ去ったはずが互いに睨み合った話になるなど、どんどん中味は膨らんでゆく。これは当人が嘘をつこうとしているのではなくて、実際の記憶の劣化とともに、逆に熊に特長的な別の要素で記憶を補おうとするからに違いない。つまり、記憶はかくして片方では痩せ、もう片方では太りつづけるのである。掲句からはそんなことも連想されて、それこそ微笑を誘われたのだった。「俳句研究」(2005年12月号)所載。(清水哲男)


December 05122005

 赤城山から続くもみぢの草紅葉

                           青柳健斗

語は「草紅葉」で秋。小さな名もない草々も紅葉する。美しい句だ。心が晴れる。この句の良さは、まず日常的な自分の足下から発想しているところだ。紅葉は高い山からだんだん麓に降りてくるので、たいていの句はその時間系にしたがって詠まれてきた。すなわち、作者の目は高いところから低いところへと、紅葉を追って流れ降りるというわけだ。が、掲句は違う。最初は,逆から発している。ふと足下の草が紅葉していることに気づき、目をあげてみれば、その紅はどこまでもずうっと続いていて、果てははるか彼方の赤城山にまで至っている。そこでもう一度、作者の目は赤城山から降りてきて、足下の草紅葉に辿り着いたのである。句では前半の目の動きは省略されており、後半のみが描かれているから、多くの従来の句と同じ時間系で詠まれたものと間違えやすい。しかし、よく読めば、足下から山へ、そして山から足下へと、この視線の往復があってこその句であることがわかってくるはずだ。それがわかったときに、同時に作者の立つ関東平野の広大さも想起され、比べてとても小さな草紅葉に注がれた作者の優しいまなざしがクローズアップされて、句は美しく完結するのである。こうした往復する視線で描かれた紅葉の句は、珍しいのではなかろうか。類句がありそうでいて、無さそうな気がする。上州赤城山。何度も見ているが、そういえば紅葉の季節は知らないことに、掲句を読んで気がついた。俳誌「鬣 TATEGAMI」(第17号・2005年11月)所載。(清水哲男)


December 04122005

 天を発つはじめの雪の群れ必死

                           大原テルカズ

語は「雪」。私は擬人化をあまり好まないが、掲句の場合は必然性が感じられる。というのも、この「雪の群れ」のどこかには作者自身も存在するからだ。「はじめの雪」とあるが、いわゆる初雪ではあるまい。降りはじめる最初の「雪の群れ」だと思う。これから地上に降りて行かねばならぬわけだが、そこがどんな所なのかの情報もないし、それよりも前に途中で何が起きるのかもわからない。条件によっては、地上に到達する前に我が身が溶けて消滅する危険性もある。しかし、もはや躊躇は許されない。仲間も揃った。機は熟したのだ。瞑目して、「天を発(た)つ」しか道はないのである。昔の人間たちの落下傘部隊もかくやと思われる「必死」の様が、よく伝わってくる。このときに地上の人間たちは、呑気にも「雪催(ゆきもよい)」の句なんぞをひねっているかもしれない。そう連想すると、なおさらに「必死」度が際立つ。作者がどんな状況で発想した句なのかは、何も知らない。だが、きっと仲間たちといっしょに、何か新しいことをはじめようと決意したときの作品ではなかろうか。前途には一筋の光明すらも見えないが、しかし、発たねばならぬ。発たなければ,何もはじまらない。どうせ「残るも地獄」であるのなら、我が身はか弱い雪のひとひらでしかないけれど、ここを出発することで生きる希みを掴みたい。この「必死」にして、この「俳句」なのだ。『黒い星』(1959)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます