明日5日より35年前の仲間たちが再結集してのART展。お近くの方は覗いてみてください。




2005ソスN12ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 04122005

 天を発つはじめの雪の群れ必死

                           大原テルカズ

語は「雪」。私は擬人化をあまり好まないが、掲句の場合は必然性が感じられる。というのも、この「雪の群れ」のどこかには作者自身も存在するからだ。「はじめの雪」とあるが、いわゆる初雪ではあるまい。降りはじめる最初の「雪の群れ」だと思う。これから地上に降りて行かねばならぬわけだが、そこがどんな所なのかの情報もないし、それよりも前に途中で何が起きるのかもわからない。条件によっては、地上に到達する前に我が身が溶けて消滅する危険性もある。しかし、もはや躊躇は許されない。仲間も揃った。機は熟したのだ。瞑目して、「天を発(た)つ」しか道はないのである。昔の人間たちの落下傘部隊もかくやと思われる「必死」の様が、よく伝わってくる。このときに地上の人間たちは、呑気にも「雪催(ゆきもよい)」の句なんぞをひねっているかもしれない。そう連想すると、なおさらに「必死」度が際立つ。作者がどんな状況で発想した句なのかは、何も知らない。だが、きっと仲間たちといっしょに、何か新しいことをはじめようと決意したときの作品ではなかろうか。前途には一筋の光明すらも見えないが、しかし、発たねばならぬ。発たなければ,何もはじまらない。どうせ「残るも地獄」であるのなら、我が身はか弱い雪のひとひらでしかないけれど、ここを出発することで生きる希みを掴みたい。この「必死」にして、この「俳句」なのだ。『黒い星』(1959)所収。(清水哲男)


December 03122005

 さすらえば白菜ゆるく巻かれている

                           田口満代子

語は「白菜」で冬。「さすらい」とは社会と自分との関係が見定め難く、あるいはまた見定めた上でも適合し難く、しかるがゆえに当て所なくさまよう状態のことを言うのであろう。かつて小林旭が日活映画で歌った同名の歌詞の二番は、次のようであった。「知らぬ他国を 流れながれて 過ぎてゆくのさ 夜風のように 恋に生きたら 楽しかろうが どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ」(作詞・西沢爽)。狛林正一の曲も名曲で泣かせるが、しかしこの「さすらい」は庶民から見た自由への憧れが強調されすぎていて一面的である。よく読むと、主人公の居直りだけなのであり、実はここには主人公の独白と見せて、そうではない庶民の願望が一方的に投影されているに過ぎない。むろん娯楽作品だから、これで良いのではあるが……。そこへいくと掲句は、「さすらい」の心象風景をおのれの実感に根ざして掴もうとしている。社会とどうにも折り合いのつかぬ気持ちのままに生きている目には、何もかもが中途半端に見えてしまう。いや、中途半端なものにこそ、自然に目が行ってしまうと言うべきか。ゆるく巻かれている「白菜」は、その象徴だ。さすらっていない心には、この白菜には何も感じない。感じたとしても、やがては固く巻かれていくだろうと楽天的に思うのみである。だが、作者のこのときの心境としては、この中途半端な巻かれ方がいわば絶対として固定されているかのように思えていたのだ。「さすらえば」の条件を「白菜」の様子で受ける意外性とあいまって、掲句のポエジーは読者の弱い部分にじわりと浸透してくる。『初夏集』(2005)所収。(清水哲男)


December 02122005

 トースターの熱線茫と霜の朝

                           今井 聖

語は「霜」で冬。霜の降りた寒い朝、台所でパンを焼いている。「トースター」はポップアップ式のものではなく、オーブン・トースターだろう。焼き上がるまでのほんのわずかの間、たいていの人はトースターの中を見るともなく見ているものだ。作者の場合は、寒さのせいもあって、自然にパンよりも「熱線」に目が行っている。「茫(ぼう)」とした感じの明るさでしかないけれど、それが頼もしくも嬉しい明るさに見えるのである。「熱線」と「霜の朝」とは、逆の意味でつき過ぎとも言えようが、この句の場合には、むしろそれで生きている。「熱線」の赤と「霜」の白とが、一瞬読者の頭の中で明滅する効果を生むからだ。ところで、このトースターはかなり古いものなのかな。いまのそれでは、直接「熱線」は見えないように作られていて、見えるのは「熱管」とでも言うべき部品だ。熱線で思い出すのは、なんといっても昔の電熱器だ。スイッチを入れると,裸のニクロム線の灼熱してゆく様子をつぶさに見ることができた。危険と言えば大変に危険な代物ではあったが、製品の原理がわかりやすくて、その意味では子供にも親しめる存在であった。同じ家電製品でも、現在の物の大半はブラックボックス化していて、原理なんてものは開発関連者以外の誰にもわからなくなってしまっている。私たちはいまや、人智の及ばぬ道具を平気な顔をして使っているのだ。あな、おそろし。俳誌「街」(第56号・2005年12月)所載。(清水哲男)




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