放送でも「他人事」を「たにんごと」と読むヤツが増えてきた。「ひとごと」じゃない。




2005ソスN12ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 03122005

 さすらえば白菜ゆるく巻かれている

                           田口満代子

語は「白菜」で冬。「さすらい」とは社会と自分との関係が見定め難く、あるいはまた見定めた上でも適合し難く、しかるがゆえに当て所なくさまよう状態のことを言うのであろう。かつて小林旭が日活映画で歌った同名の歌詞の二番は、次のようであった。「知らぬ他国を 流れながれて 過ぎてゆくのさ 夜風のように 恋に生きたら 楽しかろうが どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ」(作詞・西沢爽)。狛林正一の曲も名曲で泣かせるが、しかしこの「さすらい」は庶民から見た自由への憧れが強調されすぎていて一面的である。よく読むと、主人公の居直りだけなのであり、実はここには主人公の独白と見せて、そうではない庶民の願望が一方的に投影されているに過ぎない。むろん娯楽作品だから、これで良いのではあるが……。そこへいくと掲句は、「さすらい」の心象風景をおのれの実感に根ざして掴もうとしている。社会とどうにも折り合いのつかぬ気持ちのままに生きている目には、何もかもが中途半端に見えてしまう。いや、中途半端なものにこそ、自然に目が行ってしまうと言うべきか。ゆるく巻かれている「白菜」は、その象徴だ。さすらっていない心には、この白菜には何も感じない。感じたとしても、やがては固く巻かれていくだろうと楽天的に思うのみである。だが、作者のこのときの心境としては、この中途半端な巻かれ方がいわば絶対として固定されているかのように思えていたのだ。「さすらえば」の条件を「白菜」の様子で受ける意外性とあいまって、掲句のポエジーは読者の弱い部分にじわりと浸透してくる。『初夏集』(2005)所収。(清水哲男)


December 02122005

 トースターの熱線茫と霜の朝

                           今井 聖

語は「霜」で冬。霜の降りた寒い朝、台所でパンを焼いている。「トースター」はポップアップ式のものではなく、オーブン・トースターだろう。焼き上がるまでのほんのわずかの間、たいていの人はトースターの中を見るともなく見ているものだ。作者の場合は、寒さのせいもあって、自然にパンよりも「熱線」に目が行っている。「茫(ぼう)」とした感じの明るさでしかないけれど、それが頼もしくも嬉しい明るさに見えるのである。「熱線」と「霜の朝」とは、逆の意味でつき過ぎとも言えようが、この句の場合には、むしろそれで生きている。「熱線」の赤と「霜」の白とが、一瞬読者の頭の中で明滅する効果を生むからだ。ところで、このトースターはかなり古いものなのかな。いまのそれでは、直接「熱線」は見えないように作られていて、見えるのは「熱管」とでも言うべき部品だ。熱線で思い出すのは、なんといっても昔の電熱器だ。スイッチを入れると,裸のニクロム線の灼熱してゆく様子をつぶさに見ることができた。危険と言えば大変に危険な代物ではあったが、製品の原理がわかりやすくて、その意味では子供にも親しめる存在であった。同じ家電製品でも、現在の物の大半はブラックボックス化していて、原理なんてものは開発関連者以外の誰にもわからなくなってしまっている。私たちはいまや、人智の及ばぬ道具を平気な顔をして使っているのだ。あな、おそろし。俳誌「街」(第56号・2005年12月)所載。(清水哲男)


December 01122005

 冬の雨火箸をもして遊びけり

                           小林一茶

語は「冬の雨」。時雨とはちがって、いつまでも降り続く冬の雨は侘しい。降り方によっては、雪よりも寒さが身に沁みる。芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」があるように、いっそのこと雪になってくれればまだしも、掲句の雨はそんな気配もないじめじめとした降りようだ。こんな日は、当然表になど出たくはない。かといって、鬱陶しさに何かする気も起こらず、囲炉裏端で「火箸をも(燃)して」遊んでしまったと言うのである。飽きもせずに火箸をもして、真っ赤に灼けたそれを見ながら、けっこう真剣な顔をしている一茶の姿が目に浮かぶ。したがって、句はそんな自分に苦笑しているのではない。むしろ、そんなふうに時間を過ごしたことに、侘しさを感じると同時に、他方ではその孤独な遊びにほのかな満足感も覚えている。侘しいけれど、寂しいけれど、そのことが心の充足感につながったというわけだ。そしてこの侘しさや寂しさをささやかに楽しむという感覚は、昔の人にしては珍しい。この種のセンチメンタリズムが一般的に受け入れられるようになったのは、近代以降のことだからである。子供の歌だが、北原白秋に「雨」がある。遊びに行きたくても、傘はないし下駄の鼻緒も切れている。仕方がないので、家でひとり遊びの女の子。「♪雨が降ります 雨が降る/お人形寝かせど まだやまぬ/おせんこ花火も みなたいた」。上掲の一茶の句には、まぎれもなく白秋の抒情につながる近代的な感覚がある。孤独を噛みしめて生きた人ならではの、時代から一歩抜きん出た抒情性が、この句には滲み出ている。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)




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