「明日は入院だ。総理重病」首相が健康診断前におどける。媚びたニュースの見本なり。




2005ソスN12ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 02122005

 トースターの熱線茫と霜の朝

                           今井 聖

語は「霜」で冬。霜の降りた寒い朝、台所でパンを焼いている。「トースター」はポップアップ式のものではなく、オーブン・トースターだろう。焼き上がるまでのほんのわずかの間、たいていの人はトースターの中を見るともなく見ているものだ。作者の場合は、寒さのせいもあって、自然にパンよりも「熱線」に目が行っている。「茫(ぼう)」とした感じの明るさでしかないけれど、それが頼もしくも嬉しい明るさに見えるのである。「熱線」と「霜の朝」とは、逆の意味でつき過ぎとも言えようが、この句の場合には、むしろそれで生きている。「熱線」の赤と「霜」の白とが、一瞬読者の頭の中で明滅する効果を生むからだ。ところで、このトースターはかなり古いものなのかな。いまのそれでは、直接「熱線」は見えないように作られていて、見えるのは「熱管」とでも言うべき部品だ。熱線で思い出すのは、なんといっても昔の電熱器だ。スイッチを入れると,裸のニクロム線の灼熱してゆく様子をつぶさに見ることができた。危険と言えば大変に危険な代物ではあったが、製品の原理がわかりやすくて、その意味では子供にも親しめる存在であった。同じ家電製品でも、現在の物の大半はブラックボックス化していて、原理なんてものは開発関連者以外の誰にもわからなくなってしまっている。私たちはいまや、人智の及ばぬ道具を平気な顔をして使っているのだ。あな、おそろし。俳誌「街」(第56号・2005年12月)所載。(清水哲男)


December 01122005

 冬の雨火箸をもして遊びけり

                           小林一茶

語は「冬の雨」。時雨とはちがって、いつまでも降り続く冬の雨は侘しい。降り方によっては、雪よりも寒さが身に沁みる。芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」があるように、いっそのこと雪になってくれればまだしも、掲句の雨はそんな気配もないじめじめとした降りようだ。こんな日は、当然表になど出たくはない。かといって、鬱陶しさに何かする気も起こらず、囲炉裏端で「火箸をも(燃)して」遊んでしまったと言うのである。飽きもせずに火箸をもして、真っ赤に灼けたそれを見ながら、けっこう真剣な顔をしている一茶の姿が目に浮かぶ。したがって、句はそんな自分に苦笑しているのではない。むしろ、そんなふうに時間を過ごしたことに、侘しさを感じると同時に、他方ではその孤独な遊びにほのかな満足感も覚えている。侘しいけれど、寂しいけれど、そのことが心の充足感につながったというわけだ。そしてこの侘しさや寂しさをささやかに楽しむという感覚は、昔の人にしては珍しい。この種のセンチメンタリズムが一般的に受け入れられるようになったのは、近代以降のことだからである。子供の歌だが、北原白秋に「雨」がある。遊びに行きたくても、傘はないし下駄の鼻緒も切れている。仕方がないので、家でひとり遊びの女の子。「♪雨が降ります 雨が降る/お人形寝かせど まだやまぬ/おせんこ花火も みなたいた」。上掲の一茶の句には、まぎれもなく白秋の抒情につながる近代的な感覚がある。孤独を噛みしめて生きた人ならではの、時代から一歩抜きん出た抒情性が、この句には滲み出ている。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)


November 30112005

 汁の椀はなさずおほき嚔なる

                           中原道夫

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。私などは「くしゃみ」と言ってきたが、「くさめ」は文語体なのだろうか。日常会話では聞いたことがないと思う。句で嚔をしたのは、作者ではない。会食か宴席で、たまたま近くにいた人のたまたまの嚔である。ふと気配を感じてそちらを見ると、「ふぁふぁっ」と今にも飛び出しそうだ。しかも彼は、あろうことか汁がまだたっぶりと入った椀を手にしたままではないか。「やばいっ」と口にこそ出さねども、身構えた途端に「おほき嚔」が飛び出してきた。このときに、汁がこぼれたかどうかはどうでもよろしい。とりあえずの一件落着に、当人はもとより作者もまたほっとしている。安堵の句なのだ。汁碗を持ったままの嚔は滑稽感を誘うが、汁碗でなくとも、何かを持ったまま嚔をしたことのある人がほとんどだろう。収まってみれば、何故持ったまま頑張ったのかがわからない。よほどその汁の味が気に入っていたのだという解釈もなりたつけれど、そうではなくて私は、汁碗をもったままのほうがノーマルな感覚だと思う。それはこれから嚔をする人の心の中に、たとえ出たとしても「おほき嚔」でないことを願う気持ちがあるからだ。汁碗を持って我慢しているうちに、止まってしまうかもしれないし……。すなわち「おほき恥」を掻きたくないために、最後まで平然を装う心理が働くからなのである。だから、この句は誰にでもわかる。誰にでも、思い当たる。ただし、しょっちゅう嚔が出る人はこの限りではない。出そうになったらさっと上手に汁碗を置いて、すっと後ろを向くだろう。『銀化』(1998)所収。(清水哲男)




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