2005N12句

December 01122005

 冬の雨火箸をもして遊びけり

                           小林一茶

語は「冬の雨」。時雨とはちがって、いつまでも降り続く冬の雨は侘しい。降り方によっては、雪よりも寒さが身に沁みる。芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」があるように、いっそのこと雪になってくれればまだしも、掲句の雨はそんな気配もないじめじめとした降りようだ。こんな日は、当然表になど出たくはない。かといって、鬱陶しさに何かする気も起こらず、囲炉裏端で「火箸をも(燃)して」遊んでしまったと言うのである。飽きもせずに火箸をもして、真っ赤に灼けたそれを見ながら、けっこう真剣な顔をしている一茶の姿が目に浮かぶ。したがって、句はそんな自分に苦笑しているのではない。むしろ、そんなふうに時間を過ごしたことに、侘しさを感じると同時に、他方ではその孤独な遊びにほのかな満足感も覚えている。侘しいけれど、寂しいけれど、そのことが心の充足感につながったというわけだ。そしてこの侘しさや寂しさをささやかに楽しむという感覚は、昔の人にしては珍しい。この種のセンチメンタリズムが一般的に受け入れられるようになったのは、近代以降のことだからである。子供の歌だが、北原白秋に「雨」がある。遊びに行きたくても、傘はないし下駄の鼻緒も切れている。仕方がないので、家でひとり遊びの女の子。「♪雨が降ります 雨が降る/お人形寝かせど まだやまぬ/おせんこ花火も みなたいた」。上掲の一茶の句には、まぎれもなく白秋の抒情につながる近代的な感覚がある。孤独を噛みしめて生きた人ならではの、時代から一歩抜きん出た抒情性が、この句には滲み出ている。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)


December 02122005

 トースターの熱線茫と霜の朝

                           今井 聖

語は「霜」で冬。霜の降りた寒い朝、台所でパンを焼いている。「トースター」はポップアップ式のものではなく、オーブン・トースターだろう。焼き上がるまでのほんのわずかの間、たいていの人はトースターの中を見るともなく見ているものだ。作者の場合は、寒さのせいもあって、自然にパンよりも「熱線」に目が行っている。「茫(ぼう)」とした感じの明るさでしかないけれど、それが頼もしくも嬉しい明るさに見えるのである。「熱線」と「霜の朝」とは、逆の意味でつき過ぎとも言えようが、この句の場合には、むしろそれで生きている。「熱線」の赤と「霜」の白とが、一瞬読者の頭の中で明滅する効果を生むからだ。ところで、このトースターはかなり古いものなのかな。いまのそれでは、直接「熱線」は見えないように作られていて、見えるのは「熱管」とでも言うべき部品だ。熱線で思い出すのは、なんといっても昔の電熱器だ。スイッチを入れると,裸のニクロム線の灼熱してゆく様子をつぶさに見ることができた。危険と言えば大変に危険な代物ではあったが、製品の原理がわかりやすくて、その意味では子供にも親しめる存在であった。同じ家電製品でも、現在の物の大半はブラックボックス化していて、原理なんてものは開発関連者以外の誰にもわからなくなってしまっている。私たちはいまや、人智の及ばぬ道具を平気な顔をして使っているのだ。あな、おそろし。俳誌「街」(第56号・2005年12月)所載。(清水哲男)


December 03122005

 さすらえば白菜ゆるく巻かれている

                           田口満代子

語は「白菜」で冬。「さすらい」とは社会と自分との関係が見定め難く、あるいはまた見定めた上でも適合し難く、しかるがゆえに当て所なくさまよう状態のことを言うのであろう。かつて小林旭が日活映画で歌った同名の歌詞の二番は、次のようであった。「知らぬ他国を 流れながれて 過ぎてゆくのさ 夜風のように 恋に生きたら 楽しかろうが どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ」(作詞・西沢爽)。狛林正一の曲も名曲で泣かせるが、しかしこの「さすらい」は庶民から見た自由への憧れが強調されすぎていて一面的である。よく読むと、主人公の居直りだけなのであり、実はここには主人公の独白と見せて、そうではない庶民の願望が一方的に投影されているに過ぎない。むろん娯楽作品だから、これで良いのではあるが……。そこへいくと掲句は、「さすらい」の心象風景をおのれの実感に根ざして掴もうとしている。社会とどうにも折り合いのつかぬ気持ちのままに生きている目には、何もかもが中途半端に見えてしまう。いや、中途半端なものにこそ、自然に目が行ってしまうと言うべきか。ゆるく巻かれている「白菜」は、その象徴だ。さすらっていない心には、この白菜には何も感じない。感じたとしても、やがては固く巻かれていくだろうと楽天的に思うのみである。だが、作者のこのときの心境としては、この中途半端な巻かれ方がいわば絶対として固定されているかのように思えていたのだ。「さすらえば」の条件を「白菜」の様子で受ける意外性とあいまって、掲句のポエジーは読者の弱い部分にじわりと浸透してくる。『初夏集』(2005)所収。(清水哲男)


December 04122005

 天を発つはじめの雪の群れ必死

                           大原テルカズ

語は「雪」。私は擬人化をあまり好まないが、掲句の場合は必然性が感じられる。というのも、この「雪の群れ」のどこかには作者自身も存在するからだ。「はじめの雪」とあるが、いわゆる初雪ではあるまい。降りはじめる最初の「雪の群れ」だと思う。これから地上に降りて行かねばならぬわけだが、そこがどんな所なのかの情報もないし、それよりも前に途中で何が起きるのかもわからない。条件によっては、地上に到達する前に我が身が溶けて消滅する危険性もある。しかし、もはや躊躇は許されない。仲間も揃った。機は熟したのだ。瞑目して、「天を発(た)つ」しか道はないのである。昔の人間たちの落下傘部隊もかくやと思われる「必死」の様が、よく伝わってくる。このときに地上の人間たちは、呑気にも「雪催(ゆきもよい)」の句なんぞをひねっているかもしれない。そう連想すると、なおさらに「必死」度が際立つ。作者がどんな状況で発想した句なのかは、何も知らない。だが、きっと仲間たちといっしょに、何か新しいことをはじめようと決意したときの作品ではなかろうか。前途には一筋の光明すらも見えないが、しかし、発たねばならぬ。発たなければ,何もはじまらない。どうせ「残るも地獄」であるのなら、我が身はか弱い雪のひとひらでしかないけれど、ここを出発することで生きる希みを掴みたい。この「必死」にして、この「俳句」なのだ。『黒い星』(1959)所収。(清水哲男)


December 05122005

 赤城山から続くもみぢの草紅葉

                           青柳健斗

語は「草紅葉」で秋。小さな名もない草々も紅葉する。美しい句だ。心が晴れる。この句の良さは、まず日常的な自分の足下から発想しているところだ。紅葉は高い山からだんだん麓に降りてくるので、たいていの句はその時間系にしたがって詠まれてきた。すなわち、作者の目は高いところから低いところへと、紅葉を追って流れ降りるというわけだ。が、掲句は違う。最初は,逆から発している。ふと足下の草が紅葉していることに気づき、目をあげてみれば、その紅はどこまでもずうっと続いていて、果てははるか彼方の赤城山にまで至っている。そこでもう一度、作者の目は赤城山から降りてきて、足下の草紅葉に辿り着いたのである。句では前半の目の動きは省略されており、後半のみが描かれているから、多くの従来の句と同じ時間系で詠まれたものと間違えやすい。しかし、よく読めば、足下から山へ、そして山から足下へと、この視線の往復があってこその句であることがわかってくるはずだ。それがわかったときに、同時に作者の立つ関東平野の広大さも想起され、比べてとても小さな草紅葉に注がれた作者の優しいまなざしがクローズアップされて、句は美しく完結するのである。こうした往復する視線で描かれた紅葉の句は、珍しいのではなかろうか。類句がありそうでいて、無さそうな気がする。上州赤城山。何度も見ているが、そういえば紅葉の季節は知らないことに、掲句を読んで気がついた。俳誌「鬣 TATEGAMI」(第17号・2005年11月)所載。(清水哲男)


December 06122005

 熊を見し一度を何度でも話す

                           正木ゆう子

語は「熊」で冬。冬眠するので、この季節の熊は洞穴にひそみ姿を現さない。では、何故冬の季語とされているのだろうか。推測だが、活動が不活発な冬をねらって、盛んに熊狩りが行われたためだと思う。さて、掲句。これは人情というものだ。猟師などはべつにして、滅多に見られない熊と遭遇した人は、誰彼となくその体験を話したくなる。近年では住宅街に出没したりもするから、そんな意外性もあって、最初のうちは聞く人も真剣に耳を傾けてくれるはずだ。だが、調子に乗って何度も話しているうちに、やがて周囲は「また熊か」と鼻白むようになってくるが、話す当人は一向に気づかず「何度でも」話したがるという可笑しさ。そんな状況にある人を、作者は微笑して見ている図だ。熊の目撃者に限らずよくある話だが、こうして句に詠まれてみると、読者は「待てよ、自分も同じような話を人にしているかもしれない」と、ちょっぴり不安になるところもあって面白い。そして、もう一つ。この人はおそらく、生涯この話をしつづけるのだろうが、そのうちに時間が経つにつれて、話にも尾ひれがつきはじめるだろう。熊の大きさは徐々に大きくなり、コソコソと逃げ去ったはずが互いに睨み合った話になるなど、どんどん中味は膨らんでゆく。これは当人が嘘をつこうとしているのではなくて、実際の記憶の劣化とともに、逆に熊に特長的な別の要素で記憶を補おうとするからに違いない。つまり、記憶はかくして片方では痩せ、もう片方では太りつづけるのである。掲句からはそんなことも連想されて、それこそ微笑を誘われたのだった。「俳句研究」(2005年12月号)所載。(清水哲男)


December 07122005

 葱白く洗ひたてたるさむさ哉

                           松尾芭蕉

語は「さむさ(寒さ)」で冬。「葱」も冬の季語だが、掲句では「さむさ」がメインだ。なお、この句の「葱」は「ねぶか」と読む(『芭蕉俳句集』岩波文庫)。「ねぶか(根深)」は、白い部分の多い関東の葱で、なかには緑2に対して白8という極端な葱もあったという。さて、つとに有名なこの句は巧いとは思うけれど、あまり良い句だとは思わない。当今の句会に出しても点数は入りそうだが、よく読むと実感の希薄な句なので、ぶっちぎりの一句というわけにはいかないだろう。ミソは、寒さの感覚を視覚的な「白」で伝えたところだ。なるほど、白は寒さを連想させるし、その白が真っ白になるまでの寒い作業も思われて、句のねらいはよくわかる。元禄期の俳句としては、この白い葱の比喩は相当に新しかったにちがいない。しかもわかりやすいし、巧いものである。だが、問題は残る。端的に言えば、この句には「さむさ」の主体が存在しないのだ。寒がっているのは、いったい誰なのだろうか。作者はちっとも寒そうではないし、かといって他の誰かというのでもない。好意的に考えれば、ここで芭蕉は「寒さにもいろいろありますが、こんな寒さもありますよね」と、寒さのカタログのうちの一つを提出してみせているのかもしれない。でも、だとしたら、「さむさ哉」の詠嘆は大袈裟だ。おそらく芭蕉は、寒さの感覚を葱の白さに託すアイディアに惚れ込みすぎて、肝心の寒さの主体を失念してしまったのではなかろうか。私には、作者の「どうだ、巧いだろう」という得意顔がちらついて、嫌みとも思える。おのれの比喩に酔う。よくあることではあるけれど。(清水哲男)


December 08122005

 老人と漫画しずかな十二月

                           新保吉章

語は「十二月」。私には意味不明なれど、「老人」と「漫画」の取り合わせは珍しい。強引に解釈してみた。手持ち無沙汰の老人が、孫が読み散らした漫画本を、片付けがてらにちょっと開いて見ている。描かれている漫画には何の興味もわかないのだが、最近の子供らはこんなものに夢中なのかと、しばし眺めるともなく眺めている図か。たとえば漫画では元気なアンパンマンが走りまわり、ページを繰る老人の手つきはのろのろとしている。漫画の活発と老人の不活発。何かとあわただしい「十二月」だけど、この部屋だけは時間が止まっているかのように「しずか」なのである。これを老人が漫画に夢中だと解釈すると、句にならない。少なくとも、十二月の静けさはどこかに飛んでしまう。しかし、そのうちには漫画に熱中する老人の句が出てくるだろう。「左手に少年マガジン、右手に朝日ジャーナル」と言われた世代が、間もなく老境に入ってくるからだ。そうなると、老人のイメージもだいぶ変わったものになってくる。敬老会では、いつまでも演歌や浪曲などやっていられなくなる。懐かしのアニメ上映会やらポップスのコンサートやらが主流になるはずだ。そうなったときには、掲句の解釈も大いに変更を強いられるにちがいない。というよりも、情景があまりに当たり前すぎて、どこが面白いのかが読者に伝わらない恐れのほうが強そうだ。俳句もむろん、世に連れるというわけである。『現代俳句歳時記 冬・新年』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


December 09122005

 ぬぬつと大根ぬぬぬとニュータウン

                           今富節子

語は「大根」で冬。ははは、これは愉快。対比の妙、言い得て妙。この冬も畑に勢い良く大根が育ち、「ぬぬつ」と伸びてきた。で、はるかあなたを見渡せば、あちらでは幾棟もの高層住宅が「ぬぬぬ」と伸びている。大根は育つものゆえ「ぬぬつ」なのであり、ニュータウンの住宅はもはや育たないので「ぬぬぬ」のままの状態なのである。何気ない表現に見えて、神経が行き届いている。ところで、ニュータウン。句としてはむろんこれで良いのであるが、近づいてみると、いろいろな問題があるようだ。元来ニュータウンは、若い夫婦の入居先に考えられた住宅街で、子育てが終わったら次の世代の夫婦と交替する構想のもとにあった。だが、現実的には地価の高騰などによる住宅難から、スムーズな世代交替は行われず、いまやオールドタウンと言われるところも珍しくはない。「また、行政自らが、住民の共有財産といえる、風土や自然環境を破壊して土地を開発し、その土地の売却で新たな事業資金を得るという、まるで不動産開発業者のような事業形態が多い。その結果、現実の需要に関わり無く、過大な需要予測に基づいて次々に開発を続けて行くといった事態が生じ、特にバブル経済破綻後、これらの事業体が巨額の累積赤字、借入金や売れない土地を抱えている事実が判明して、その処理が大きな社会問題になっている」(「Wikipedia」より)。読者のなかには、ニュータウンにお住まいの方もおられるだろう。遠望すれば「ぬぬぬぬ」の街区にも、諸問題は途切れることなく「ぬぬつ」と頭をもたげつづけているというわけだ。『多福』(2005)所収。(清水哲男)


December 10122005

 洛中の師走余所事余所者に

                           田中櫻子

語は「師走」。2006年版の『俳句年鑑』(角川書店)で、櫂未知子が「二〇〇五年の収穫」として、二〇代一〇代という若い俳句の書き手を紹介している。みんな、なかなかなものだ。なかで、気に入った句の一つに掲句があった。気に入ったのは、それこそ私が若い頃、京都に「余所者(よそもの)」として住んでいたことに関係がある。千年の都であり、また観光地でもあるので、京都の四季折々には他の都市とは違って、その都度のメリハリが色濃い。師走になれば四条南座の顔見世興行もあるし、そんな派手さはなくとも店々を覗けば年用意の品が細かいものまで何やかやと並べられている。すなわち、京都はいま街ぐるみで師走の顔をしているというわけだ。だが、街がそのようであればあるほど、余所者の居心地はよろしくなくなる。市内に自宅を持たぬ者にしてみれば年用意も無縁だし、正月に向けての街の動きをただ眺めて過ごすしかないのだから……。だから作者のように、しょせんは「余所事」と突き放してはみるものの、他方では京都の伝統的な床しい正月に参加しそびれる口惜しさも覚えるわけだ。句は、決して「余所事」なので関係がないと言っているのではなく、せっかく京都にいるのに、関係を持とうにも持てないもどかしさを表現していると読んだ。ところで、作者の田中櫻子さんは、詩も書いておられる方ではないでしょうか。ある雑誌の投稿欄で、よくお見かけするお名前です。だとすれば、仕事のために京都にお住まいになったのは二年ほど前でしたよね。間違っていたら、どちらの田中さんにもごめんなさい。俳誌「藍生」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


December 11122005

 冬木と石と冬木と石とありにけり

                           友岡子郷

語は「冬木(ふゆき)」。常緑樹も言うが、葉の落ちた木のほうが「冬木」の感じが色濃い。「寒木」と言うと、さらに語感が強まる。寂しい句だ。そして、良い句だ。「冬木と石と」、また重ねての「冬木と石と」。芸としてのリフレインというよりも、素朴でとつとつとした吃音のように聞こえてくる。すっかり葉が落ちた高い木と、地に凍てついた低い石と。しばらく歩を進めても、それだけしか無い世界。いや、他にいろいろとあっても、それだけしか目に入らない世界だ。しかも、おそらくは色も無く、さらには無音の世界なのである。この寂しい風景は、実景であると同時に作者の心象風景でもあるだろう。かつて稲垣足穂が言ったように、人間の関心は若年時には動物に向かい、年輪を重ねるに連れて植物へ、さらには鉱物へと移っていくようだ。だとすれば、この句には老境に差しかかった者の素直な視野が反映されている。寂しき充実。繰り返し読むうちに、そんな言葉がひとりでに湧いてきて、胸に沁み入るようである。今宵は眠りに落ちる前に、この句を反芻してみよう。深い孤独感が、永遠の眠りの何たるかを秘かに告げてくれるかもしれない。『雲の賦』(2005)所収。(清水哲男)


December 12122005

 ここに居るはずもないのに冬の夜

                           臼井昭子

語は「冬の夜」。寒い夜の微妙な心理状態を詠んだ句だが、誰にも思い当たる体験は何度かあるだろう。たとえば忘年会のような、何かの会合の流れだろうか。皆と別れるタイミングを失っているうちに、気がつけば「居るはずもない」ところに自分がいる。家を出てくるときには、考えもしなかったような遠い場所だったり、あるいは誰かの住まいだったりと……。流行の言葉を使えば、いま作者の「居る」ところは「想定外」の場所なのである。しかも、夜はだんだん更けてきて、寒気も強まってきたようだ。この暗くて寒い夜道を、これから一人で帰るのかと思うと、心細さと不安とが入り混じってきて、とてももう陽気にふるまってはいられない気分だ。ああ、あのときにさっさと先に帰っておけばよかったのになどと、じわり後悔の念もわいてくる。これが「冬の夜」でなければ、だいぶ気分は違うはずだ。「春の夜」ならむしろ楽しいかもしれず、夏ならば家に帰っても寝苦しいだけと割り切れそうだし,秋だといささかの感傷に浸る余裕くらいはあるだろう。しかし、冬の夜にはそうはいかない。寒い夜道を肩をすぼめて戻るよりも、暖かい部屋にいてテレビでも見ていたほうが快適に決まっている。失敗したなあと思いつつも、一方では作者はなおその場を去り難く思ってもいるようだ。ここがまた、冬の夜のもたらす雰囲気の不可思議な一面である。俳誌「面」(第104号・2005年12月)所載。(清水哲男)


December 13122005

 凍鶴のほとりの土の雀かな

                           中村三山

語は「凍鶴(いてづる)」で冬,「鶴」に分類。寒い日の鶴は、凍りついたように身じろぎもせず、曲げた首を自分の翼深く埋めて立っている。かたや、周辺(ほとり)の雀たちは餌を求めて活発だ。最近、澁谷道さんから随想集『あるいてきた』(2005・私家版)をおくっていただき、なかの「幻のひと三山」で、この句が紹介されていた。引用しておく。「『ほとりの土』という言葉のはたらきが一句にどれだけの重みを与えていることか。凍鶴を主人公に置きながらそれについては触れずに、『ほとりの土の雀』を詠嘆して、凍鶴の存在感を不動のものにしている。なんというまなざしの冴えた優しさ、隙のない表現であろう。作者の心根の深さこまやかさが、わたくしのこころにヒタ、と貼りつき剥がれない」。これ以上の鑑賞をつけくわえる必要はないだろうが、たった十七文字でこれほどの「心根の深さこまやかさ」を表現できるとは驚きだ。実は私も知らなかったのだが、作者の中村三山は昭和初期に虚子に認められたのだが、水原秋桜子が「ホトトギス」を離脱する際に強く「馬酔木」への参加を求められ、懊悩の果てに両誌への出句を止めてしまった。その後、いわゆる京大俳句事件では起訴猶予になったものの、そこで俳句の筆を折り、戦後になってもついに作句することはなかったという。「幻のひと」と言われる所以だが、あくまでもみずからの心根に忠実だった人柄がしのばれる。澁谷さんの文章に二十句ほど紹介されているので、機会を見て取り上げていきたいと思う。『中村三山遺句集』(1983)所収。(清水哲男)


December 14122005

 馬売りて墓地抜けし夜の鎌鼬

                           千保霞舟

語は「鎌鼬(かまいたち)」で冬。むろん私には経験はないが、昔からよく聞いてきた。不思議なことがあるものだ。根元順吉の解説から引いておく。「突然、皮膚が裂けて鋭利な鎌で切ったような切り傷ができる現象。昔は目に見えないイタチのしわざと考えられていたところから、このようにいわれたというが、他方、風神が太刀(たち)を構える『構太刀』から由来したという説もある。この発生は地域性があるらしく、越後(えちご)(新潟県)では七不思議の一つに数えられている。/語源はともかくとして、現在もこのような損傷を受ける人がいるので、この現象は否定できない」。要するに、何かのはずみで空気中に真空状態ができ、そこに皮膚が触れると切れてしまうらしいのだ。当然ながら、昔の人はこれを妖怪変化の仕業と考えた。掲句は道具立てが揃いすぎている感もあるが、「鎌鼬」にやられても仕方がない状況ではある。なにせ藁の上から育て上げた愛馬を他人に売り渡し、後ろめたくも寂しい思いで通りかかったのが夜の墓地とくれば、何か出てこないほうがおかしい。……と、びくついているところに、急に臑のあたりに痛みが走ったのだろう。「わっ、出たっ」というわけだ。実際に怪我をしたのかどうかはわからないけれど、咄嗟に「鎌鼬」だと(信じてしまったと)詠んだところに、この句の可笑しいような気の毒なような味がよく出ている。池内たけしに「三人の一人こけたり鎌鼬」があるが、こちらはまったくの冗談口だろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 15122005

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く

                           飯田蛇笏

語は「雪」。表では、しんしんと雪が降りつづいている。暗くならないうちにと、作者がランプの火屋(ほや)を掃除している図だ。火屋の形状も物理的には一種の「玉」ではあるが、句の「玉」は夜中に光り輝く珠玉のようなものとして詠まれている。息を吹きかけながら、キュッキュッとていねいに拭いている。深い雪に閉じ込められる身にとっては、夜の灯りはなによりの慰めだから、ていねいさにも身が入るのだ。押し寄せる白魔にはあらがう術もないけれど、このときに最後の希望のように火屋を扱っている作者の自然な感情は美しい。子供のころ、我が家もランプ生活だったので、この感情のいくばくかは理解できる。私は火屋の掃除係みたいなものだったので、やはり「玉のごとくに」拭いていた。ただ、作者の拭いた時代は戦前のようだから、「玉」もしっかりしていただろう。句全体から、なんとなくそれが感じられる。ひるがえって私の時代は敗戦直後という悪条件があり、火屋のガラスはみな粗悪品だった。なにかの拍子に、すぐに割れてしまった。これが、実に怖かった。我が家には火屋を買い置きしておく経済的な余裕がなかったので、割れたとなると、一里の雪の道を歩いて村に一軒のよろず屋まで買いにいかねばならない。慎重に拭いてはいたのだが、それでも割れることは何度もあった。親には叱られ,暗くなりかけた雪道に出て行くあの哀しさは忘れられない。生活のための「玉」の貴重さを、掲句から久しぶりに思い出されたのだった。私の暮らしていた山陰地方は,今日も雪の予報である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 16122005

 年の瀬や隣家は船のごとく消え

                           和泉祥子

語は「年の瀬」で冬、「年の暮」に分類。この慌ただしい季節に、隣家が引っ越していった。「船のように消え」とは、おそらく引っ越していっただけではなくて、住んでいた家がそっくり取り壊されたのではなかろうか。あとは更地だ。長年そこに建っていた家が跡形も無く消えてしまった。長い間港に停泊していた船が、とある日、忽然と出港してしまったかのようである。寂しさもむろんあるけれど、いささか茫然の感もあって、しばし作者は跡地を見入っているのだろう。こういうことは何も「年の瀬」に限ったことではないのだが、作者自身の慌ただしさともあいまって、余計に茫然の感情が色濃くなっているのだと思う。実は現在、掲句とは逆のことが私の身近に起きつつある。秋口にマンションの真向かいの民家が、それこそ忽然と消えてしまい、いま新しい家を建築中だ。なんでもアパートができるという噂である。しかし、建築中の建物にはすっぽりとグリーンのビニール・シートがかぶせられていて、外からでは全容がどうなるのかは窺い知れない。全体が四角く角ばっていて、普通の民家のような造りではなさそうだが、どんな建物が出現するのだろうか。現場に立てられている工事の説明板によれば、完成は十二月となっている。となると、旬日中くらいには全体像が姿を現すはずである。きっと「船のように」堂々と、ある日忽然という感じで……。俳誌「くったく」(50号記念句集・2005)所載。(清水哲男)


December 17122005

 母すこやか蕪汁大き鍋に満つ

                           目迫秩父

語は「蕪汁(かぶらじる)」で冬。この季節、霜にあたった蕪(かぶ)は甘みが出て美味である。それを味噌汁仕立てにしたのが「蕪汁」だと、どんな歳時記にも書いてある。しかし、私の子供のころに母が作ってくれたのは「すまし汁」だった。母の実家の流儀なのか、あるいは味噌が潤沢にはなかったせいなのか、それは知らない。畑で蕪は山ほど穫れたので、とにかく冬には来る日も来る日も蕪汁だった。すなわち風流とも風趣とも関係のない、貧乏暮らしの果ての汁物だったわけだが、子供のくせに私は蕪の味が好きだったから、けっこう喜んで食べていた。ご飯にざぶっとかけて食べても、なかなか良い味がした。こう書いていると、ひとりでに当時の味を思い出す。それほど頻繁に、食卓に上っていたということである。掲句もおそらくは、そうした子供の頃の思い出が詠まれているのだろう。「母すこやか」とわざわざ書き記すのは、現在とは違って、母が元気だったころのことを言いたいがためである。母がとても元気で、大きな鍋では蕪がいきおいよく煮立てられていて、思い返してみれば、我が家はあの頃がいちばん良い時期だったなあと詠嘆している。当時は気がつかなかったけれど、あの頃が我が家の盛りだった……と。誰にでも、こうした思い出の一つや二つはあるにちがいない。料理としては地味な「蕪汁」を、それもさりげなく詠んでいるので、逆に読者の琴線にぴりりと触れてくるのである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 18122005

 門々や子供呼込雪のくれ

                           野 童

こ半世紀ほどで大きく変わったことの一つに、こうした子供の情景がある。江戸は元禄期の句だが、この情景には、私の世代以前から十年ほど後の世代くらいの者であれば、みなシンパシーを覚えるだろう。懐かしい情景だ。雪の日とは限らないけれど、夕方になるとあちこちから表で遊び呆けている子供たちを「呼(び)込(む)」声が聞こえてきたものだった。「ご飯ですよーっ」、「もう暗いから帰っておいで」など。ところが、遊びに夢中になっていると、呼び込む声は聞こえても、そう簡単には帰りたくない。「おい、お前。帰って来いってさ」と仲間から言われても、「まだ大丈夫だよ、平気だよ」と愚図愚図している。そのうちに渋々と一人が帰り、また別の一人が遊びの輪を離れていきと、毎夕が同じことの繰り返しであった。句の場合も同様の情景であるが、ことに「雪のくれ」だから、戸外の寒さと子供の元気さとが想起されて微笑ましい。そしてさらには、それぞれの家で子供を待っている暖かい食卓にも思いが及び、句の「雪のくれ」という設定がいっそう生きてくるのである。この句を紹介している柴田宵曲も、このことを頭においてか、次のように書いている。「平凡な句のようでもある。しかし一概にそういい去るわけにも行かないのは、必ずしも少年の日の連想があるためばかりとも思われぬ」。寒い雪の日の夕ぐれと暖かい家庭との暗黙の取り合わせによる、庶民的幸福の情景。句の主題は、ここにあるような気がする。『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


December 19122005

 かじかみて酔を急ぐよ名もなき忌

                           土橋石楠花

語は「かじかむ(悴む)」で冬。「名もなき忌」とあるから著名な人の通夜、ないしは葬儀ではない。また、とくに親しい人のそれでもない。おそらくは同じ町内に住み、道で顔を合わせれば会釈するくらいの淡い付き合いだった人のそれだろう。いまの都会ではそういう風習は絶えてしまっているが、昔は町内で誰かが亡くなると、通知がまわってきて出かけたものである。したがって、弔問はほんの儀礼的なものだ。よく知らない人なのだから。哀しみの感情もわいてはこない。ひどく冷え込んだ日で身体は寒いばかりであり,そこで作者は浄めの酒を普段よりも多めにいただいて「酔を急」いでいるというわけだ。「酔を急ぐよ」が寒さばかりではなく、作者の個人との距離の遠さを暗示していて効果的だ。と読み流してみると、最後に据えられた「名もなき忌」を誤解する読者もいそうなので、念のために書いておくと,これは作者の死生観の一端を述べたもので、決して無名だった故人をおとしめているのではない。むしろ無名に生き無名のままに死に、そうした死後のことはかくのごとくに質素であるべしと言っている。作者の土橋石楠花は十七歳で「鹿火屋(かびや)」を主宰していた原石鼎の門を敲き、今年の夏に亡くなるまで一貫して「鹿火屋」とともに歩きつづけた。2005年7月15日没。享年八十八。句歴七十年余.それなのにこの人には句集が一冊あるだけだ。このことだけを取ってみても,いかに石楠花という俳人が名利とは無縁であったかがうかがわれる。自分の死を詠んだ句に「ぽつかりと吾死に炎帝を欺かむ」があり、まさにその通りになった。句集『鹿火屋とともに』(1999)所収(清水哲男)


December 20122005

 まいにちが初めての年暮れにけり

                           千葉皓史

語は「年暮る」、「年の暮」に分類。毎年訪れてくる年の暮れだが、しかし、ここに至る「まいにち」はいつも「初めて」であった。と、なんでもない普通のことを普通に詠んだだけのように写るかもしれないが、なかなかどうして、面白い発想である。詠まれている時期は年の暮れなのだが、この句には歳末の感慨だけではなく、来るべき新年に向けての期待感や抱負が含み込まれているからだ。むしろ、後者の要素が大きいくらいかもしれない。年の暮れにあたっての反省として、毎日が新しい日々だったわけだが、それらの日々を常に新鮮な気持ちで生きてきたろうかということがある。そう反省してみると、「まいにちが初めて」という意識をいつも持っていたわけではなかった。だから、来年こそは、この誰にでも当たり前のことをきちんと意識して生きていこうと、作者の心はもう半ば以上は新年に飛んでいる。したがって掲句は、年末の句でありながら新年の句だとも素直に読めてしまう。考えてみれば、年の瀬の意識のなかには、誰でも新しい年へのそれが滲んでいるはずである。正月の句に「まいにちが初めて」といった表現はよく見かけるけれど、それを年の暮れに言ったところがとても珍しい。さて今年も旬日で暮れていきますが、個人的にも社会的にも、どうも新しい年にはあまり期待できそうもない気がしてなりません。せめて「まいにちが初めて」の意識だけは持ちつづけたいものと思っております。「2006・俳句研究年鑑」所載。(清水哲男)


December 21122005

 熱燗やきよしこの夜の仏教徒

                           小倉耕之助

語は「熱燗(あつかん)」で冬。なんとも皮肉の効いた句だ。聖夜、ワインだシャンパンだと、多くの日本人が西洋風な飲み物を楽しんでいるであろうときに、ひとり「てやんでえ」とばかり「熱燗」をやっている。まあ、この人が本物の仏教徒かどうかは知らないが、形としては日本人の大半が仏教徒だから、真正面から考えると、いまのように多くの人がクリスマスを祝うのは筋が通らない。私が子供だった頃には、こんなにクリスマスが盛んになるとは夢にも思えなかった。翌朝の新聞には、銀座のキャバレーあたりで騒いでいる男たちの写真が載っていたほどだから、どんな形にせよ,聖夜を祝うこと自体が珍しかったわけだ。それなのに、いつしか現在のような活況を呈するにいたり、日本人は器用と言えば器用、無神経と言えば無神経だと、世界中から好奇の目を向けられることになってしまった。十年ほど前になるか、あるアメリカ人に「メリー・クリスマス」と気を利かしたつもりで挨拶したら、「あ、僕はクリスチャンじゃありませんから」と返事されたことがある。知らなかったのだけれど、彼はユダヤ系だった。そのときに赤面しながら切実に感じたのは、まぎれもなく私はクリスマスに浮かれる日本人の一人なのであり、そんな軽いノリで生きているのであるということだった。とは言うものの、ここまで高まってきた日本のクリスマス上澄み掬いの風潮は、なかなか静まることはないだろう。せめて句の人のように熱燗で「てやんでえ」くらい気取ってみたいものだが、日本酒が苦手ときては、それもままならない。なんだかなあ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


December 22122005

 日は午後に冬至の空のさゝ濁り

                           石塚友二

日は「冬至」。太陽が最も北半球から遠ざかる日で、一年中でいちばん日が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」と言い習わされ、この日から冬の寒さがはじまると言われてきたが、今年はもう真冬が来てしまっている。掲句の「空」は、この時期に晴れることの多い東京あたりのそれだろう。今日も良く晴れてはいるが、午後になってきて見上げると、少し曇ってきたような……と言うのである。「さゝ濁り」は一般的には「小濁」と漢字表記し、川の水などがちょっと濁っている様子を指す。この句の場合には、「さゝ」は「小」よりも「些些」と当てるほうがぴったり来るかもしれない。「さゝ濁り」と見えるのは、むろん冬至を意識しているからだ。間もなく太陽が沈んでしまう今日の青空に、かすかに雪空めいた濁りを感じたという繊細な描写が生きている。はじめ読んだときには万太郎の句かなと思ったほどに、繊細さに加えてどこか江戸前風な粋の味わいもある。それはそれとして、冬至の時期は多くの人が多忙だから、なかなかこうした気分にはなれないのが普通だろう。それどころか、今日が冬至であることにすら気がつかない年もあったりする。私などは何日かして、あっ過ぎちゃったと気づくことのほうが多かったと思う。幸いと言おうか何と言おうか、今年の仕事は一昨日ですべて終わったので、今年の今日こそはゆったりと「さゝ濁り」を眺められそうである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 23122005

 数へ日の交番に泣く女かな

                           菅野忠夫

語は「数へ日(かぞえび)」で冬。「♪もういくつ寝るとお正月」と、年内も押しつまって、指で数えられるほどになったころのこと。年内もあと八日、今日あたりから使える季語だ。さて、掲句。「交番」のイメージは各人各様ではあろうが、あまりお世話にはなりたくないところだ。そんな意識があるからか、交番の前を通りかかると、なんとなく中を見てしまう。とくに警察官以外の人のいる気配がするときには、立ち止まって眺めるほどではないにしても、少し注意して観察する目になる。何だろうか、何かあったのかと、野次馬根性も大いに働く。たいていは誰かが道を尋ねていたりするくらいのものだが、ときには句のような情景を見かけることもある。それこそ、何があったのか。「女」がひとり、明らかに泣いている。雑踏のなかで大切なお金をそっくりすられでもしたのか、あるいは何か揉め事を訴えてでもいるのだろうか。むろん作者は、泣く女を瞥見して通り過ぎただけだから、想像だけは膨らんでも事実はわからない。わからないので、余計に気になる。この「数へ日」の忙しいときに、交番で泣くとは余程のことがあったにちがいない。あの人には、明るいお正月もないだろうな、気の毒に。等々、家に戻っても、ふっと泣いている情景を思い出す。年の瀬ならではの人情もからんだ、ちょっと短編小説のような味のする句だ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


December 24122005

 炬燵に賀状書くや寝たる父の座に

                           橋本風車

語は「賀状書く」で冬。この三連休を利用して、賀状を書いている方も多いだろう。作者は先に寝てしまった「父の座」で書いている。おそらくそれまでは、父親がそこで賀状を書いていたのだと思う。昔は筆で書くのが普通だったから、父の座には筆も硯も墨もそのまま置かれていたので、拝借して書くことにしたのだ。硯などを自分の座に一つ一つ移動させるよりも、こちらがそこに移動したほうが手っ取り早い。そんな軽い気持ちで父の座に坐ってみたところが、なんとなく家長になったような、厳粛な気持ちになったのである。その座で筆を持ち賀状を書いていると、特別にあらたまった感じになり、おのずから文面も引き締まったものになったに違いない。この感じは、わかります。会社でふざけて部長の椅子に坐ってみたりしたときの、ああいう感じに通じるものがあって、思い当たる読者もおられるでしょう。賀状を筆で書くといえば、私も小学生時代にはじめて書いたときがそうだった。きっかけは私くらいの年代の者はみな同じで、お年玉つきの年賀はがきが発行された(1949年)ことによる。先生の指導を受け、なにやら難しい文章を筆で書いたときには、一挙に大人の仲間入りをした気分であった。このことについては「俳句」(2006年1月号)ではじまった池田澄子の連載「あさがや草紙」で詳しく触れられているので、ぜひお読みいただきたい。昨今の俳句誌のエッセイのなかでは際立った達意の文章で、「俳句」は久しぶりに次号の待ち遠しい雑誌となりそうである。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


December 25122005

 折鶴は紙に戻りて眠りけり

                           高橋修宏

季句。しかし、何となくこの季節にふさわしいような気がする。「折鶴」のかたちに折られていた折り紙が、その形を解かれて「紙」に戻り、いま静かに眠っていると言うのである。この繊細なセンスは素晴らしい。ただの四角い一枚の紙が、鶴に折られると、もうただの紙ではない。形が与えられるばかりではなく、その形には折り手の願いや祈りも込められる。千羽鶴のためならなおさらだが、そうではなくとも、少なくとも鶴らしくあってほしいと願われるとき、折鶴にはそのようであらねばならぬという役割が生ずるわけだ。したがって、鶴の形をしている間は、寝ても覚めてもただの紙であることは許されず、常に鶴でありつづけなければならない。そこにはもとより、一枚の紙から鶴になった喜びもあるだろうが、その喜びと背中合わせのように、やはり役割を演じつづけるための緊張感がつきまとう。疲れるだろうなと、思う。そしてこのことは、私たち人間が役割を持つときとよく似ているなとも、思う。いや、逆か。社会的に役割を持つ人間が見るからこそ、折鶴のさぞやのプレッシャーを察するというのが順序だろう。ともあれ、そんな折鶴もいまは形を解かれ、残っている折り線がわずかに鶴であったことを示すのみで、羨ましいくらいに安らかに眠っている。これが、死というものだろうか。露骨ではないにしても、たぶん掲句は小さな声でそう問いかけているのである。『夷狄』(2005)所収。(清水哲男)


December 26122005

 煤逃げの碁会のあとの行方かな

                           鷹羽狩行

語は「煤逃げ(すすにげ)」で冬、「煤払(すすはらい)」に分類。現代風に言うならば、大掃除のあいだ足手まといになる子供や老人がどこかに一時退避すること。表に出られない病人は、自宅の別室で「煤籠(すすごもり)」というわけだ。掲句は軽い調子だが、さもありなんの風情があって楽しめる。大掃除が終わるまで「碁会」(所)にでも行ってくると出ていったまま、暗くなってもいっかな帰ってこない。いったい、どこに行ってしまったのか、仕様がないなあというほどの意味だ。この人には、普段からよくこういうことがあるのだろう。だから、戻ってこなくても、家族は誰も心配していない。「行方」の見当も、だいたいついている。そのうちに、しれっとした顔で帰ってくるさと、すっかりきれいになった部屋のなかで、みんなが苦笑している。歳末らしいちょっとした微苦笑譚というところだ。戦後の厨房や暖房環境の激変により、もはや本物の煤払いが必要なお宅は少ないだろうが、私が子供だったころの農村では当たり前の風習だった。なにしろ家の中心に囲炉裏が切ってあるのだから、天井の隅に至るまでが煤だらけ。これを一挙に払ってしまおうとなれば、無防備ではとても室内にはいられない。払う大人は手拭いでがっちりと顔を覆い、目だけをぎょろぎょろさせていた。そんなときに、子供なんぞは文字通りの足手まといでしかなく、大掃除の日には早朝から寒空の下に追い出されたものだった。寒さも寒し、早く終わらないかなあと、何度も家を覗きに戻った記憶がある。俳誌「狩」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


December 27122005

 慈善鍋士官襟章ほのももいろ

                           山口青邨

語は「慈善鍋(社会鍋)」で冬。救世軍が歳末に行う募金活動で、東京あたりではこの季節の風物詩と言ってもよいだろう。ラッパを吹いたり賛美歌をうたったりして、道行く人に呼びかけている。でも、私は一度も応じたことがない。句にあるような軍装に、どうしても引っかかるからだ。作者のように彼らをよく見たことはないのもそのせいだが、なるほど襟章は「ほのももいろ」なのか、つまり本物の軍隊のそれに比べれば平和的な彩色というわけである。救世軍は,1865年にイギリスのメソジスト派の牧師ウイリアム・ブース等がはじめた。調べてみると、彼らの軍装は軍隊の効率的かつ機動的な部分を布教などの組織的活動に取り入れたことによるもののようだ。決して好戦的な団体ではないのであるのはわかるが、しかし、何もファッションにまで軍隊調を取り入れる必要はなかったのではあるまいか。それとも、何か事があれば軍隊の役割も果たそうというのか。教義などを知らないので、何とも言いようがない。いずれにしても、作者は近寄ってしげしげと襟章を見つめたわけだ。おそらくは、本物の軍隊のそれとの違いを確認したかったのだろう。で、「ほのももいろ」に安堵して、鍋にいくばくかのお金を投じたのだろう。戦前の句なのか戦後の句なのかは知らないが、私のような軍装アレルギーのない人には、微笑して読み流せる句ということにはなりそうだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 28122005

 荷がゆれて夕陽がゆれて年の暮

                           岩淵喜代子

末の慌ただしさを詠んだ句は枚挙にいとまがないが、掲句は逆である。と言って、忙中閑ありといった類いのものでもない。このゆれている「荷」のイメージは、馬車の上のそれを思わせる。大きな荷を積んだ馬車が、夕陽の丘に消えていく。牧歌的な雰囲気もあるけれど、それ以上にゆったりと迫ってくるのは、行く年を思う作者の心である。すなわち、行く年を具象化するとすれば、今年あったこと、起きたこと、その他もろもろの事象などをひっくるめた大きな「荷」がゆれながら、これまたゆれる夕陽の彼方へと去っていくという図。もちろん夕陽が沈み幾夜かが明ければ、丘の向うには新しい年のの景観が開けているはずなのだ。「年の暮」の慌ただしさのなかにも、人はどこかで、ふっと世の雑事から解放されたひとときを味わいたいと願うものなのだろう。その願いが、たとえばこのようなかたちを伴って、作者の心のなかに描かれ張り付けられたということだろう。そしてこの「荷」は、おそらくいつまでも解かれることはないのである。来年の暮にも次の年の暮にも、永遠にゆれながら夕陽の丘の彼方へと消えていくのみ……。それが、年が行くということなのだ。去り行く年への思いを、寂しくも美しく、沁み入るが如くに抒情した佳句である。現代俳句文庫57『岩淵喜代子句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


December 29122005

 餅板の上に包丁の柄をとんとん

                           高野素十

語は「餅」で冬。昔の餅は円形が普通だったので、「望(もち)」からの命名とも。句の餅は、いわゆる熨斗餅(のしもち)で四角形だ。これをいまから切り分けようというわけで、その前にまず包丁の柄(え)を餅板の上で「とんとん」とやっているところ。懐かしい仕草だ。というのも、昔の包丁の柄は抜けやすかったので、とくに固い物を切るときには、途中で抜けない用心のため逆さにして「とんとん」とやったものだ。しかし、この句の場合はどうだろうか。包丁の柄が少しぐらついていると解してもよいけれど、柄はしっかりとしているのだが、これから固い餅を切るぞという気合いがそうさせたのだと、私は解しておく。一種のちょっとした儀式のようなものである。それにしても、「とんとん」とは可愛らしい表現だ。そう言えば、素十には「たべ飽きてとんとん歩く鴉の子」がある。山口県育ちの私は丸餅が主流だったので、こうやって切るのはかき餅だけ。薄く切らねばならないこともあって、子供の手ではとても無理だった。当時の農家の餅は、むろん正月用のもあったけれど、大半は冬の間の保存食として搗かれた。すなわち、正月が終わっても、来る日も来る日も餅ばかりなのであって、あれにはうんざりだったなあ。とくに朝焼いて学校の弁当にした餅は、食べる頃にはかちんかちんになっている。味わうというよりも、とりあえず飲み込んでおこうという具合で、その味気なさったらなかったっけ。三が日で食べきってしまうくらいの量が、理想的である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 30122005

 桜の木ひかりそめたり十二月

                           加藤喜代子

二月。人事的にはいろいろなことが終了する月だが、この句は「ひかりそめたり」と、自然界のはじまりを見ている。紅葉の早い「桜」だから、春への準備も早いのだろうか。もとより、いまは真冬だ。桜の木のなかで何が起きているのかは、表面的にはわからないだろう。しかし作者は目で見たというよりも、体感として桜の木に、何か春へのひそやかな息吹のようなものを感じたのだと思う。ものみな終りを告げているような年末に、ふっと覚えたかすかな自然の胎動。生命が生命として、そこにある確かさ、頼もしさ。それを「ひかりそめたり」とは、まことに詩情あふれる優しい物言いだ。この月の慌ただしさのなかで、こうした感受の心を保ち得ている作者には深甚の敬意を表したい。惚れぼれするような佳句だ。ところで今日十二月三十日は、作者の師事した「ゆう」主宰・田中裕明が逝って一年目の命日にあたる。あらためて、俊才の夭折が惜しまれてならない。その彼が掲句について書いているので、引用しておこう。「……この句などは上質のポエジーが感じられます。あらためて、俳句における詩情とは何かを考えました。雰囲気や感情に流れるのではなく、季語がひろげる世界を具体的に描き出すこと」。季語「十二月」に安易にながされていないという意味でも、私には記憶すべき一句となった。『霜天』(2005)所収。(清水哲男)


December 31122005

 除夜の鐘天から荒縄一本

                           八木忠栄

語は「除夜の鐘」。今年は、この力強い句で締めくくろう。余白師走句会(2005年12月17日)に出句された作品だ。除夜の鐘が鳴りはじめた。人はこのときに、それぞれの思いのなかで「天」を振り仰ぐ。と、天よりするすると「荒縄が一本」下りてきた。むろんイメージの世界の出来事ではあるが、大晦日の夜の感慨のなかにある人ならば、具体的に荒縄が下りてきたとしても、べつだん奇異にも思わないだろう。作者もまた、一本のこの荒縄をほとんど具象物として描き出しているように思われる。そして、そんな荒縄を見上げる人の思いは一様ではないだろう。ある人は天の啓示のようにまぶしく見つめるかもしれないし、またある人は「蜘蛛の糸」のカンダタのように手を伸ばそうとするかもしれない。年を送るその人の胸中がさまざまに反応するわけで、ミもフタもないことを言うようだが、この荒縄に対する姿勢はそのままその人の来し方を象徴することになる。で、かくいう私は、どうするだろうか。きっとポケットに手を入れたまま、茫然と眺めることになるのだろう。体調不良もあったけれど、それほどに何事につけても消極的で傍観的な一年だったような気がする。読者諸兄姉は、如何でしょうか。さきほど冒頭で一度鳴った(鳴らない方もあります、ごめんなさい)のは、知恩院の鐘の音です。ゆっくりと想像してみてください。では、一年間のご愛読に感謝しつつ、新しい年を迎えることにいたします。どうか、みなさまに佳き新年が訪れますように。(清水哲男)




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