私の下手な看板写真は今日でお終い。来月は読者によるユニークな北海道シリーズです。




2005N1130句(前日までの二句を含む)

November 30112005

 汁の椀はなさずおほき嚔なる

                           中原道夫

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。私などは「くしゃみ」と言ってきたが、「くさめ」は文語体なのだろうか。日常会話では聞いたことがないと思う。句で嚔をしたのは、作者ではない。会食か宴席で、たまたま近くにいた人のたまたまの嚔である。ふと気配を感じてそちらを見ると、「ふぁふぁっ」と今にも飛び出しそうだ。しかも彼は、あろうことか汁がまだたっぶりと入った椀を手にしたままではないか。「やばいっ」と口にこそ出さねども、身構えた途端に「おほき嚔」が飛び出してきた。このときに、汁がこぼれたかどうかはどうでもよろしい。とりあえずの一件落着に、当人はもとより作者もまたほっとしている。安堵の句なのだ。汁碗を持ったままの嚔は滑稽感を誘うが、汁碗でなくとも、何かを持ったまま嚔をしたことのある人がほとんどだろう。収まってみれば、何故持ったまま頑張ったのかがわからない。よほどその汁の味が気に入っていたのだという解釈もなりたつけれど、そうではなくて私は、汁碗をもったままのほうがノーマルな感覚だと思う。それはこれから嚔をする人の心の中に、たとえ出たとしても「おほき嚔」でないことを願う気持ちがあるからだ。汁碗を持って我慢しているうちに、止まってしまうかもしれないし……。すなわち「おほき恥」を掻きたくないために、最後まで平然を装う心理が働くからなのである。だから、この句は誰にでもわかる。誰にでも、思い当たる。ただし、しょっちゅう嚔が出る人はこの限りではない。出そうになったらさっと上手に汁碗を置いて、すっと後ろを向くだろう。『銀化』(1998)所収。(清水哲男)


November 29112005

 アカーキイ・アカーキエヴィチの外套が雪の上

                           中田 剛

語は「外套(がいとう)」とも「雪」ともとれるが、メインとしての「外套」に分類しておく。さて、ついに出ました「アカーキイ・アカーキエヴィチ」。数日前にも触れたゴーゴリの小説「外套」の主人公だ。したがって、この作品を読んでいないと句意はわからないことになる。アカーキイ・アカーキエヴィチ。この特長のある名前は、私の若かったころには多くの人にお馴染みだったけれど、現在ではどうだろうか。19世紀のロシア小説などは、もう若い人は読まないような気がする。ストーリーはいたって単純で、うだつの上がらぬ小官吏であるアカーキイ・アカーキエヴィチが、一大決心のもとに外套を新調する。やっとの思いで作った外套だったのに、追いはぎにあって盗られてしまう。被害届を出したり、その筋のツテを頼って必死に取り戻そうとするが上手く行かず、そうこうするうちに悲嘆が嵩じて死んでしまうといったような物語だ。小説はもう少しつづくのだが、読み終えた読者が気になるのは、ついに見つからなかった彼の外套が、ではいったい何処にあるのかということである。おそらく句の作者もずっと気にしていて、とりあえずの結論を詠んでみたというところだろう。長年探していた外套が、なあんだ、ほらそこの「雪の上」にそのままであるじゃないか、と。そう言いきってみて、作者は少し安堵し、私のような読者もちょっぴりホッとする。厳寒のペテルブルグと往時の社会環境が、ひとりのしがない男を不幸に追いやっていく「外套」が日本人にも共感を生んだのは、やはり多くの人が理不尽にも貧しかったせいだろう。誰もそんな時代を望まないけれど、なんだかまた、そんな時代が新しい形でやってきそうな兆しは十分にある。「俳句」(2005年12月号)所載。(清水哲男)


November 28112005

 小春日やものみな午後の位置にあり

                           清水青風

語は「小春(日和)」で冬。陰暦十月の異称、「小六月」とも。立冬を過ぎてからの春のように暖かい晴れた日の状態が「小春日和」だ。「小春風」「小春空」などとも使う。掲句の「位置」という言葉からすぐに思い出したのは、木下利玄の代表作「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」である。高校生のときに、教室で習った。静かに咲いている牡丹の花の様子を描いて、「位置のたしかさ」とはまた、言い得て妙だ。咲く「位置」に一分の狂いがあっても、その美しさは減殺されてしまう。動かし難いその「位置」にあってこその牡丹花の美しさであり、品格なのだ。掲句の「位置」もまた、利玄の歌のように「ものみな」動かし難いことを指して、「小春日和」のありようを活写している。暖かい初冬の午後の静けさ。淡い日を浴びて「ものみな」それぞれに影を落としているが、それらがみな「午後の位置」にあると認識することで、小春日和の穏やかさがいっそう強調され、増してくるのである。で、この句を読んでもう一つ思い出したのが、山口百恵の歌った「秋桜」だった。明日嫁ぐ娘が、母親に対する気持ちを歌っている。途中に「♪こんな小春日和の穏やかな日は/あなたの優しさが沁みてくる……」とあって、この部分の歌詞というよりも、ここで転調するさだまさしのメロディが、それこそ動かし難く小春日和のありようを告げている。暖かいがゆえに寂しさが募る「午後の位置」を、音楽的に表現した傑作だと思う。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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