壁の暦を見上げては、もうこんな時期かとため息をつくことが多くなった。あと五週間。




2005ソスN11ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 27112005

 すき焼きを囲むとなりの子も加はり

                           若林卓宣

語は「すき焼き(鋤焼)」で冬。ご馳走だったなあ、昔は。年に何度もは、食べられなかった。何か特別な日。サラリーマンの家庭だと、ボーナスが出た日の夕食だとか、とにかくその日の思いつきで食べられるような料理じゃなかった。牛肉が高かったせいである。掲句も、そんな時代の句だと思う。何かのお祝いだろう。せっかくの「すき焼き」だからと、わざわざ「となりの子」も呼んでやっている。想像するに、その子の両親にも如何かと声をかけたのだが、さすがに大人は遠慮したのではあるまいか。そんな時代を経た人でないと、この句のどこが「味」なのかはわかるまい。この子がおずおずと牛肉に箸を伸ばす様子すら、目に見えるようだ。そして時は流れ、この子が大きくなって社会人となり、見渡してみたら、もう「すき焼き」はご馳走でも何でもなくなっていた。となりの子を呼んだって、来やしない。いやその前に、すき焼き(ごとき)で声をかけるなんぞが常識外れになってしまっている。しかし、こんな時代になっても、私の同世代はいつまでも「となりの子」意識が抜けないから、いまだにご馳走という思いが強い。幾人かで囲んでいるときに、たとえば誰かがもりもりと肉を食べたりすると、気になって仕方がない。現代っ子は、すき焼きよりもハンバーグが好きなんだそうだ。つまり、いまやご馳走という観念や感覚自体が社会から消えてしまったというわけだろう。ああ、食べたくなってきたな、すき焼き。『現代俳句歳時記・冬(新年)』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 26112005

 北陸や海照る屋根の干布団

                           岡本 眸

語は「(干)布団」で冬、「蒲団」に分類。句は「富山三句」のうち。富山には秋にしか行ったことがないが、テレビの天気予報で見ているだけでも、富山をはじめ冬の「北陸」地方の晴れ間は多くないことがわかる。連日のようにつづく鈍色の空。それがたまに良く晴れたとなると、きっと句のような情景があちこちで見られるのだろう。二階の窓から屋根いっぱいに干された布団が、海への日差しの照り返しも受けてほっこりと暖まってゆく光景である。一見なんということはない句だけれど、この情景はそれだけで読者の心をほっこりとさせる。しかも「北陸や」と大きく張った句柄が、いやがうえにもほっこり感を大きくしてくれるのだ。さすがは富安風生門らしい詠みぶりである。東京あたりでは一戸建ての住宅が少なくなったせいもあるけれど、なかなかこういう情景にはお目にかかれない。それに昔から、屋根に直接布団や干し物を広げる習慣もなかったようだ。ここ数年のうちで私が目撃した珍しい例では、干してあるのではなかったが、初夏の屋根いっぱいに鯉のぼりを広げたお宅があった。新築の一戸建て。きっと前に住んでいた家では大きな鯉のぼりを立てるスペースがあったのに、引っ越してきてそれがなくなってしまったのだ。だから仕方なく……、ということのようだと思ってしばらく見ているうちに、なんだかとても切ない気持ちになったことを思い出す。「俳句」(2005年12月号)所収。(清水哲男)


November 25112005

 茹ブロッコリー団塊世代物申す

                           金崎久子

語は「ブロッコリ(ー)」で冬。一年中出回っているが、旬は十一月〜二月頃である。なるほど、ブロッコリの花のつぼみは「団塊」状になっている。作者は団塊の世代なのだろうが、茹でたブロッコリを口に運ぼうとして、ふっと自分の世代に似た野菜だなと思い、見直すと何か「物申す」ような、いかにも物言いたげな表情に見えたというのである。いわゆる「2007年問題」を前にしたいま、この句を読む同世代の人たちには大いに共感を呼びそうだ。2007年以降、この国はヨーロッパなどに先駆けて、本格的な高齢者時代を迎える。そして、そのすぐ先には「超」高齢化社会が待ち受けている。こんなにも高齢者が多い社会は人類はじまって以来であり、古今東西のどんな国や地方も一度も経験したことはないのだ。人口統計上では予測されていたとはいえ、とにかく未知の世界なのだから、実際にはじまってみなければわからないことばかりだ。おそらくは、予想もしなかった事態がいろいろと起きてくるにちがいない。とどのつまりは、国家による強制的安楽死が具体化するかもしれないし、そこまではいかなくともそれに準じた高齢者の扱いが検討されるだろう。いずれにしても高齢者人口の中核をなす団塊の世代が、そんな状況に唯々諾々と従い、座して死を待つわけにはいかない。いまのうちから、大いに「物申す」必要がある。何も好きこのんで団塊世代を選んで生まれてきたわけではないのだから、ブロッコリのようにみないっしょくたに茹でられるいわれはない。自分たちの力で、つまはじきしにくる奴らと闘いつつ生きつづけなければならないだろう。『花の歳時記 冬・新年』(2004・講談社)所載。(清水哲男)




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