在沖縄海兵隊のグアム移転は施設建設費だけで1兆円以上。これにも金払うんだろうな。




2005ソスN11ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 25112005

 茹ブロッコリー団塊世代物申す

                           金崎久子

語は「ブロッコリ(ー)」で冬。一年中出回っているが、旬は十一月〜二月頃である。なるほど、ブロッコリの花のつぼみは「団塊」状になっている。作者は団塊の世代なのだろうが、茹でたブロッコリを口に運ぼうとして、ふっと自分の世代に似た野菜だなと思い、見直すと何か「物申す」ような、いかにも物言いたげな表情に見えたというのである。いわゆる「2007年問題」を前にしたいま、この句を読む同世代の人たちには大いに共感を呼びそうだ。2007年以降、この国はヨーロッパなどに先駆けて、本格的な高齢者時代を迎える。そして、そのすぐ先には「超」高齢化社会が待ち受けている。こんなにも高齢者が多い社会は人類はじまって以来であり、古今東西のどんな国や地方も一度も経験したことはないのだ。人口統計上では予測されていたとはいえ、とにかく未知の世界なのだから、実際にはじまってみなければわからないことばかりだ。おそらくは、予想もしなかった事態がいろいろと起きてくるにちがいない。とどのつまりは、国家による強制的安楽死が具体化するかもしれないし、そこまではいかなくともそれに準じた高齢者の扱いが検討されるだろう。いずれにしても高齢者人口の中核をなす団塊の世代が、そんな状況に唯々諾々と従い、座して死を待つわけにはいかない。いまのうちから、大いに「物申す」必要がある。何も好きこのんで団塊世代を選んで生まれてきたわけではないのだから、ブロッコリのようにみないっしょくたに茹でられるいわれはない。自分たちの力で、つまはじきしにくる奴らと闘いつつ生きつづけなければならないだろう。『花の歳時記 冬・新年』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


November 24112005

 校則で着るやうなセーターを着て

                           田口 武

語は「セーター」で冬。何の気なしに、ふと自分の着ているセーターのことが気になった。色は、紺色だろうか。首周りはVネックで、まことに変哲もないものだ。若いときにはお洒落を意識して、「校則」に抵触するかしないかのぎりぎりのセーターを着たものだったが、いま身につけているのは校則の指示にあった見本みたいな代物である。若さ、お洒落。そういうものから完全に離れてしまった自分に、ひとり作者は苦笑している。作者四十代の句であるが、この句への反応は読者の世代によってまちまちだろう。校則が戦後の生徒を縛りはじめたのは、この国が高度成長期にさしかかったころからだからだ。私の中学高校時代には日本全体が貧乏だったので、あるにはあった校則も十分に機能していなかった。とくに服飾に関しては、あれこれとうるさい規則を設ける以前の問題として選択肢が少なかったし、それよりも何よりもとにかく当座の服装を何とかすることで精一杯だった。お洒落をする経済的な余裕などなかったわけで、学校でセーターの色や形まで決めるなどはナンセンスの極みと言おうか、近未来にそんな校則が登場することになろうなどとは露思わない世代だったということになる。したがって、私には実感的には掲句はわからない。ただ、ずっと後の世代でないと作れない句だなと見入ってしまったのだ。句に触発されて現今の校則をいくつか読んでみて、とりわけて女子高のやかましさ(制服規定はもちろん、髪型からスカート丈まで)は凄いものだと、これまた見入ってしまったことである。『さうぢやなくても』(2005)所収。(清水哲男)


November 23112005

 体型に合はぬ外套文語文

                           前田半月

句も収載されていることから、新刊の大岡信著『新・折々のうた8』(岩波新書)が送られてきた。パラパラと拾い読みしているうちに、この句に目がとまった。解説によれば、作者は「俳句形式の中で『言葉』についての論議をくりひろげようと試みているようだ」として、「擬態語のなかでぬくぬく竈猫」「彫像は直喩なりけり日脚伸ぶ」が引かれている。なるほど、面白い試みだ。しかし反面、こじつけ過ぎにならぬよう工夫するのが大変だろうなとも思う。掲句の季語は「外套(がいとう)」で冬。「文語文」への違和感を詠んでいる。どうも「文語文」というヤツは、(自分の)体型に合わない「外套」みたいで、しっくり来ないというわけだ。まあ、これは作者の思いだから額面通りに受け取るしかないが、古風な文語文を敬遠するのに、同じく古風な「外套」という言葉をもってきたところが微笑を誘う。「(オーバー)コート」ではなく「外套」を使ったのは、むろん意図してのことに違いない。「コート」の比喩で文語文を撃つのでは当たり前。あえて古い言葉の「外套」を持ち出して撃っているから、にやりとさせられるのである。ところで「外套」と言えば、多くの人がゴーゴリの短編を思い出すだろう。登場時の主人公が着ていた外套は、体型に合うとか合わないとかの問題以前のつぎはぎだらけのボロボロで、みんなから(平井肇訳では)「半纏(はんてん)」と呼ばれているような代物だった。そんな外套で、主人公は厳冬のペテルスブルグを歩いていた。十九世紀ロシアの悲しき外套よ……。この外套ならば、文語文にはむしろ馴染みそうだなと思ったことだった。『半雨半晴』(2004)所収。(清水哲男)




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