自壊の危険性のあるマンションを造り売りつける。どこかの国の年金制度とそっくりだ。




2005ソスN11ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 21112005

 練炭の灰練炭の形で立つ

                           中村与謝男

語は「練炭(れんたん)」で冬。懐かしや。物心ついた頃の我が家の暖房には練炭ストーブが使われていたので、練炭との出会いはずいぶんと古い。句の情景も、見慣れたそれである。でも、掲句の中味が古いのかと言えば、まったく逆だろう。私よりも二十歳近く年下の作者にしてみれば、この情景はむしろ新鮮なのだ。昔だと、どこででも見られたから当たり前すぎて、こういう句は成立しにくかった。いまではめったに目にすることがないので、昔の当たり前をまじまじと見るようなことも起きてくるというわけだ。言われてみれば、なるほど「灰」になっても原型をとどめている練炭のありようは面白い。むろん、木や紙や何かを燃やしても、そのままそおっとしておけば原型はとどめるが、練炭の場合は灰が固くて強いから、ちょっとやそっとの振動などでは毀れないのが特長だ。燃え尽きても崩れない。そこには意思無き練炭にもかかわらず、さながら梃子(てこ)でも動かぬ強固な意思ある物のように見えてくるではないか。句は、そのあたりのことを言っているのだと思った。練炭は一定の温度を長時間保ったまま燃えるので便利なのだが、欠点は一酸化炭素を出しすぎる点だ。したがって、現今のように密閉された住宅では、中毒の危険があるので使えない。最近たまに新聞で練炭の文字を見かけると、車の中での心中事件に使われていたりして、この国の燃料としてはすっかり過去のものとなってしまった。『楽浪』(2005)所収。(清水哲男)


November 20112005

 冬すでに路標にまがふ墓一基

                           中村草田男

後、一瞬の戸惑いを覚える。だが、この戸惑いこそが掲句の命だろう。戸惑うのは、「冬すでに」とあるけれど、「何が『冬すでに』どうなったのか、どうなっているのか」については何も書かれてないからだ。で、いきなり「路標とまがふ墓一基」と「冬すでに」を断ち切った光景が現れる。読者には、上五の「冬すでに」がどのように下七五にかかってゆくのかという頭があるから、「あれっ」と思うわけだ。そこでもう一度、句全体を見渡すことになる。すると、この「冬すでに」の未完結性が一種の余韻となって、句全体をつつんでいることがわかってくる。もっと言えば、漠然としていてもどかしいような「冬すでに」があるから、路傍に打ち捨てられた「墓一基」の姿がより鮮明になってくるのだ。「路標」は、たとえば「江戸まで十里」といったような道しるべのこと。よく見ないとそんな路標と「まがふ」(見まがう)ほどに、一つの小さな墓が打ち捨てられている。たぶん、墓を守るべき子孫や縁者も絶えてしまったにちがいない。しかし、この墓の下に眠っている人にも、むろん人生はあった。どんな人で,どんな生涯を送った人なのか。作者はしばし、墓の前にたたずんでいる。人の世の無常を感じている。現世の季節は「冬すでに」到来しており、どのような人であれ、その運命はいずれはこの墓と同じように、寒い季節に打ち捨てられさらされるのだと、作者は思わずにはいられなかったのだ。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 19112005

 つはぶきはだんまりの花嫌ひな花

                           三橋鷹女

石蕗の花
語は「つはぶき(石蕗の花)」で冬。葉が蕗(ふき)に似ていることからの命名だ。石蕗の花も、こうきっぱりと嫌われては立つ瀬がないだろう。この花の印象は、とにかく陰気である。「だんまりの花」とは、言い得て妙だ。歳時記をひっくりかえしてみても、石蕗の花の句にはあまり明るいものはない。「つはのはなつまらなさうなうすきいろ」(上川井梨葉)など。しかし、この写真のようにクローズアップしてみると、ちっとも暗くはないことがわかる。菊か、もっと言えば向日葵みたいだ。そう見えるのは、たぶんこの写真に濃緑色の広い葉が写ってないせいである。あの葉っぱと黄色の花との取り合わせが、どうやら暗さを演出する元凶のようだ。そして、もう一つ。暗いイメージを演出するものに、石蕗の咲く環境がある。自生のものは海岸に多いが、なにしろ冬の海を前にしているから、かなり群生していても、どうしても寂しそうに見えてしまう。数年前に、静岡の海岸でみたことがある。また園芸用だと、宿屋などの日本式の庭の、しかも何故か隅っこのほうに植えられているので、これまた暗いイメージに拍車がかかる。そんなこんなで、可哀想に石蕗の花は未来永劫侘しく咲きつづけなければならぬようだ。そんななかで、こういう句があった。「老いし今好きな花なり石蕗の咲く」(沢木てい)。なるほど、老いてから好きになる花としてはぴったりかもしれない。侘しく見えるのは若いときの話で、高齢になってくるとひっそりと咲くさまが我が身のようでもあり、そのあたりがいとしく思えるからなのだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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