某大手建設会社社員だった友人曰く「マンションなんて,オレは到底怖くて住めねえ」。




2005ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19112005

 つはぶきはだんまりの花嫌ひな花

                           三橋鷹女

石蕗の花
語は「つはぶき(石蕗の花)」で冬。葉が蕗(ふき)に似ていることからの命名だ。石蕗の花も、こうきっぱりと嫌われては立つ瀬がないだろう。この花の印象は、とにかく陰気である。「だんまりの花」とは、言い得て妙だ。歳時記をひっくりかえしてみても、石蕗の花の句にはあまり明るいものはない。「つはのはなつまらなさうなうすきいろ」(上川井梨葉)など。しかし、この写真のようにクローズアップしてみると、ちっとも暗くはないことがわかる。菊か、もっと言えば向日葵みたいだ。そう見えるのは、たぶんこの写真に濃緑色の広い葉が写ってないせいである。あの葉っぱと黄色の花との取り合わせが、どうやら暗さを演出する元凶のようだ。そして、もう一つ。暗いイメージを演出するものに、石蕗の咲く環境がある。自生のものは海岸に多いが、なにしろ冬の海を前にしているから、かなり群生していても、どうしても寂しそうに見えてしまう。数年前に、静岡の海岸でみたことがある。また園芸用だと、宿屋などの日本式の庭の、しかも何故か隅っこのほうに植えられているので、これまた暗いイメージに拍車がかかる。そんなこんなで、可哀想に石蕗の花は未来永劫侘しく咲きつづけなければならぬようだ。そんななかで、こういう句があった。「老いし今好きな花なり石蕗の咲く」(沢木てい)。なるほど、老いてから好きになる花としてはぴったりかもしれない。侘しく見えるのは若いときの話で、高齢になってくるとひっそりと咲くさまが我が身のようでもあり、そのあたりがいとしく思えるからなのだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 18112005

 焼藷を買ひ宝くじ買つてみる

                           逸見未草

語は「焼藷(やきいも)」で冬。いよいよシーズンですね。我が家の近辺にも、毎晩のように売りにきます。いわゆる流しの焼芋屋がうまれたのは、明治期と言われています。ただし、掲句の焼藷は流しから買ったのではなく、近くに宝くじ売り場があるのですから、町中の店からでしょう。良い匂いに誘われて、作者はふと買う気になって焼藷を買った。小さな衝動買いというわけだが、ほこほこと暖かい包みを手にして歩きはじめると、今度は宝くじ売り場が目にとまり、これまたなんとなく何枚かを買ったというのである。ただそれだけのことながら、読者にはこのときの作者の気持ちがよくわかるような気がする。それは句によって、作者の心のゆとりが感じられるからだ。焼藷も宝くじも、べつに一大決心して買うようなものじゃない。かといって、心が気ぜわしかったりすると、そんなものの前は通り過ぎてしまう。こういうものが目にとまるのは、その人の心に普段よりも余裕があるせいである。余裕があるからたわむれに焼藷を買い、連鎖反応的に宝くじを求める気持ちわいてきた。ほこほこと手に暖かい焼藷と、宝くじに当るかもしれないという心の暖かさとが、読者をもなごませる……。でも不思議なもので、この買い物の順序が逆だと、句の印象はまったく変わってしまう。最初に宝くじを買ったとすると、これは衝動買いではなく、意識的に目がけての買い物になってしまうからだ。で、次に焼藷と来ては、作者がなんだか世知辛い世の中であくせくと生きているように思えてきて、わびしくすら感じられる。この句では、この順序が大切なのだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 17112005

 書庫梯子降りずに釣瓶落しかな

                           能村研三

語は「釣瓶落し」で秋。夕陽の沈み方の例えだが、なるほど秋から冬の日没はあっという間だ。誰が言い出したのかは知らねども、うまいことを言ったものである。もっとも、最近では「釣瓶(つるべ)」そのものが無くなってきたので、我々の死後には確実に死語となるだろう。誰か、いまのうちにうまいこと言い換えておけば、近未来の季語として認知される可能性は大である。それはさておき、掲句の面白さは、どこにあるのだろうか。「書庫梯子」は、そんなに高くはない。高くても、せいぜいが大人の背丈くらいかな。書庫は書籍を保護する必要上、明かり取りの窓は大きく作られてはいない。小さな窓が、天井に近いところあたりにぽつりぽつりとつけてある。だから、床に立っていると表は見えない理屈だが、著者は梯子に乗っていたので、たまたま見える位置にいたわけだ。資料探しに夢中になっているうちに、ふと外光の変化に気がついた。で、小さな窓から表を見やると、まさに釣瓶落しの秋の陽が沈んでゆく。もうこんな時間か、そろそろ引き揚げなければ。と思いつつも、そのまま作者は梯子を「降りずに」、しばし釣瓶落しに魅入られたかのように動かなかったのだった。降りる夕陽と、降りない私と……。もとより夕陽と私の位置の高さはとてつもなく違うのだけれど、そういうことに関係なく、巨大な夕陽が早く降り、小さな私が降りずにいるというコントラストには微笑させられる。私もそうだが、たいていの人は書庫や図書館から出てくると、人工的な町並みよりも並木だとか遠い山並みなどの「自然」にひとりでに目がいってしまうものだろう。それを梯子のおかげで、本だらけの環境のなかで体験できたと詠んだところに、作者の鋭敏な神経が見てとれる。現代俳人文庫『能村研三句集』(2005・砂子屋書房)所収。(清水哲男)




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