ブッシュと小泉が金閣寺見物。「金」とはまた、いかにも「金」好きのご両人らしいや。




2005N1117句(前日までの二句を含む)

November 17112005

 書庫梯子降りずに釣瓶落しかな

                           能村研三

語は「釣瓶落し」で秋。夕陽の沈み方の例えだが、なるほど秋から冬の日没はあっという間だ。誰が言い出したのかは知らねども、うまいことを言ったものである。もっとも、最近では「釣瓶(つるべ)」そのものが無くなってきたので、我々の死後には確実に死語となるだろう。誰か、いまのうちにうまいこと言い換えておけば、近未来の季語として認知される可能性は大である。それはさておき、掲句の面白さは、どこにあるのだろうか。「書庫梯子」は、そんなに高くはない。高くても、せいぜいが大人の背丈くらいかな。書庫は書籍を保護する必要上、明かり取りの窓は大きく作られてはいない。小さな窓が、天井に近いところあたりにぽつりぽつりとつけてある。だから、床に立っていると表は見えない理屈だが、著者は梯子に乗っていたので、たまたま見える位置にいたわけだ。資料探しに夢中になっているうちに、ふと外光の変化に気がついた。で、小さな窓から表を見やると、まさに釣瓶落しの秋の陽が沈んでゆく。もうこんな時間か、そろそろ引き揚げなければ。と思いつつも、そのまま作者は梯子を「降りずに」、しばし釣瓶落しに魅入られたかのように動かなかったのだった。降りる夕陽と、降りない私と……。もとより夕陽と私の位置の高さはとてつもなく違うのだけれど、そういうことに関係なく、巨大な夕陽が早く降り、小さな私が降りずにいるというコントラストには微笑させられる。私もそうだが、たいていの人は書庫や図書館から出てくると、人工的な町並みよりも並木だとか遠い山並みなどの「自然」にひとりでに目がいってしまうものだろう。それを梯子のおかげで、本だらけの環境のなかで体験できたと詠んだところに、作者の鋭敏な神経が見てとれる。現代俳人文庫『能村研三句集』(2005・砂子屋書房)所収。(清水哲男)


November 16112005

 水風呂に戸尻の風や冬の月

                           十 丈

語は「冬の月」。この寒いのに「水風呂」に入るとは、なんと剛胆な人かと驚いたが、いわゆる「みずぶろ」ではなかった。柴田宵曲の解説を聞こう。「水風呂というのはもと蒸風呂に対した言葉だ、という説を聞いたことがある。橋本経亮などは、塩浴場に対する水浴場ということから起こったので、居風呂(すえふろ)という名は誤だろうといっている。いずれにしても現在われわれの入るのは水風呂のわけである。この句もスイフロで、ミズブロではない」。そうだろうなあ、いくらなんでもねえ。だとしても、寒そうな入浴だ。たてつけが悪いのか、風呂場の「戸尻(とじり)」が細く透けている。そこから冷たい冬の風が吹き込んできて、煌煌と照る月も見えている。冬の月は秋のそれよりも美しいとはいうけれど、この場合に風流心などは湧いてこないだろう。寒い思いが、いや増すだけである。昔の冬の入浴は、楽ではなかったということだ。と言いつつも、実は私の心には、この程度ではまだ極楽だなという思いはある。というのも、田舎にいたころの我が家の風呂には、戸尻の隙間どころか、屋根も壁もなかったからだ。まさに、野天風呂であった。夏など気温の高い季節ならともかく、冬には往生した。雪の降るなか、傘をさして入ったこともある。寒風に吹きさらされての入浴などはしょっちゅうで、あれでよく風邪をひかなかったものだと、我がことながら感心してしまう。「あおぎ見る星の高さや野天風呂」。当時の拙句であるが、まったく切迫感がない。温泉にでもつかっている爺さんの句のようで、いやお恥ずかしい。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


November 15112005

 重ね着の中に女のはだかあり

                           日野草城

語は「重ね着」で冬。寒いので、何枚も重ねて着ること。暖房の不完全な時代の寒さしのぎには、とりあえずこれしかテがなかった。掲句はそんな重ね着姿の女性を目にして、咄嗟にできたのだと思う。頭の中で、こねくりまわした句ではない。でも当たり前じゃないか、などとは言うなかれ。重ね着であろうがなかろうが、何をどう着てても「中に女のはだか」はあるのだけれど、しかし作者は重ね着だからこそ「はだか」を感じているのである。というのも、重ね着はさして人目を気にしない無造作な着方だからだ。ファッションもコーディネートもあらばこそ、とにかく寒いので、そこらへんのものを着込んでしまう。傍目からは、もうモコモコ状態である。きちんと着たときには、衣服は身体そのものと化すが、モコモコのときの衣服は身体とは遊離して見えてしまう。つまり衣服は衣服として、「はだか」は「はだか」として別々の存在と写るわけだ。モコモコだと、これはもうズボッと簡単に抜けてしまいそうに思われる。だから咄嗟の印象が、はだかにつながったと読むべきだろう。着込めば着込むほどに、かえって「中のはだか」を意識させるところが面白い。加えて、着込んだ当人にその自覚がまったくないところが、ますます面白い。人間心理の綾とでも言うべきか。世の中、誰が何をどう見て何を感じているのか。油断もスキもあったものではない。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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