校内の撮影は立ち入れないので難しい。柵越しに伸び上がってパチリ。ピンぼけである。




2005ソスN11ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 11112005

 ほのぼのと秋や草びら椀の中

                           矢島渚男

て古語だろうが、「花びら」ならぬ「草びら」とは何だろう。早速、辞書を引いてみた。「くさ‐びら【草片・茸】1あおもの。野菜。東大寺諷誦文稿『渋き菓くだもの苦き菜クサビラを採つみて』 2きのこ。たけ。宇津保物語国譲下『くち木に生ひたる―ども』 3(斎宮の忌詞) 獣の肉」[広辞苑第五版]とある。掲句に当てはめるとすると、野菜でも茸(きのこ)でもよいとは思うが、やはり「秋」だから、ここは茸と読んでおきたい。それはそれとして、なかなかに含蓄のある言葉ですね。この句、何と言っても「ほのぼのと」が良い。普通「ほのぼのと」と言うと、陽気的には春あたりの暖かさを連想させるが、それを「秋」に使ったところだ。読者はここで、一様に「えっ」と思うだろう。何故、「秋」が「ほのぼの」なのかと……。で、読み下してみると、この「ほのぼのと」が、実は「椀(わん)の中」の世界であることを知るわけだ。つまり、秋の大気は身のひきしまるようであるが、眼前の熱い椀の中には旬の茸が入っていることもあり、見ているだけで「ほのぼのと」してくるというわけだ。すなわち、一椀から「ほのぼのと」立ち上ってくる秋ならではの至福感が詠まれている。余談だが,最初に読んだときに、私は「ほろほろと」と誤読してしまった。目が良くないせいだけれど、しかし自分で言うのも変なものだが、いささかセンチメンタルな「ほろほろと」でも悪くはないような気がしている。この場合の椀の中味は、高価な松茸を薄く小さく切った二、三片でなければならないが(笑)。俳誌「梟」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


November 10112005

 蜜柑山の中に村あり海もあり

                           藤後左右

語は「蜜柑(みかん)」で冬。近所の農家の畑に、数本の蜜柑の木がある。東京郊外で、昔は畑ばかりだった土地柄とはいえ、蜜柑の栽培は珍しい。通りかかると、今年もよく実っている。やわらかい初冬の日差しを受けて、黄色い実が濃緑の葉影にきらきらと輝いてい見える様子は、まことに美しい。「全て世は事もなし」、そんな平和な雰囲気に満ちている。心が落ち着く。掲句のように本格的な密柑山は見たことがないのだが、そんなわけで、ある程度の想像はつく。全山の蜜柑に囲まれて「村」があり、しかも「海も」あるというのだから、まるで一幅の絵のようである。この句に篠田悌二郎の「死後も日向たのしむ墓か蜜柑山」を合わせて読むと、それぞれの密柑山は別の場所のものだけれど、そのたたずまいが目に沁みてくる。ところで、我が家の近所に実った蜜柑を一度だけ食べたことがある。昨年の冬だったか。この農家では収穫後に即売をするらしく、ちょうどいま買ってきたところだと言って、近所の煙草屋のおばさんにいくつかもらった。おそらく、紀州蜜柑の系統なのだろう。小ぶりではあったが、とても甘くて美味しかった。今年も即売があるのなら、ぜひ買いたいとは思うのだが、その日については昔からのつきあいのある人にだけ教えるらしい。そりゃそうだ。たいした量が収穫できるわけでなし、即売とはいえ、ほとんどお裾分けに近い値段のようだし……。ま、余所者は黙って指をくわえているしかないだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 09112005

 空狭き都に住むや神無月

                           夏目漱石

語は「神無月」で冬。陰暦十月の異称だ。今日は陰暦の十月八日にあたるから、神無月ははじまったばかりである。神無月の起源には諸説があってややこしいが、俳句の場合には、たいていが神々が出雲に集まるために留守になる月という説を下敷きにするようだ。たぶん、掲句もそうだろう。「則天去私」の漱石ならずとも、私たちは神と聞けば天(空)を意識する。一般的な「神、空に知ろしめす」の観念は、古今東西、変わりはあるまい。私のような無神論者でも、なんとなくその方向に意識が行ってしまう。句の漱石も同じように空を意識して、あらためて都の空の狭さを感じている。こんなに「空狭き都」に住んでいると、神無月同様に、普通の月でもさして神の存在を感じられないではないか。これでは、いつだって神無月みたいなものではないのかと、ひねりを効かせた一句だと読める。ここまで読んでしまうのは、おそらく間違いではあろうが、しかし句を何度も頭の中で反芻していると、この神無月が「例月」のように思えてくるから不思議だ。すなわち、神無月の扱いが軽いのである。その言葉に触発されただけで、むしろ重きは空に置かれているからだ。したがって、このときの漱石は「則天去私」ならぬ「則私去天」の心境であった。と、半分は冗談ですが……。その後「東京には空がない」と言った女性もいたけれど、明治の昔から、東京と神との距離は出雲などよりもはるかに遠かったのである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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