2005N11句

November 01112005

 寄る家のなき本籍地暮の秋

                           望月哲土

語は「暮の秋」。秋も終りに近づいた季節・気候の感じを言う。作者は出張か旅行かで、たまたま「本籍地」のあたりを通りかかったのだろう。子供の頃に住んでいたところか、あるいは暮らしたことのない父方の故郷なのかもしれない。いずれにしても、もはや知る人もなく、訪ねる家もない。冷たい風が吹いていて、そぞろ寒さが身に沁みてくる。本籍地ということで、日頃はその土地の名前などに何となく親しみを覚えてはいるのだけれど、いざそこに立ってみると、見知らぬ異郷でしかないのである。ご存知のように、本籍地はどこにでも定めることができる。が、私もそうだが、自分と何らかの関わりを持つ土地に決めるのが普通だろう。私は結婚を機に、それまでの本籍地であった父の田舎から、最初に住んだ街に移した。移したのは、父の田舎のままにしておくと遠いので、戸籍謄本の取り寄せなどにひどく時間がかかったためである。以後、そういうときには歩いて数分の区役所に出向けばよく、ずいぶん便利にしていた。しかし、その後の転居の際には同じ都内でもあり、そのまま打っちゃっておいたら、やはり何かの折りには郵便でのやりとりを余儀なくされ、その度に変えようとは思うのだが、性来の無精が勝った格好で、まだそのまんまにしてある。その本籍地には、もう寄る家もないし、人の出入りが激しい都会だから、たぶん知る人も少なくなっているだろう。機会があれば立ち寄ってみたいとは思うけれど、おそらく掲句のような心情になるのがオチというものではなかろうか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 02112005

 城裏や湾一枚に大きな秋

                           渡辺 侃

持ちの良い句だ。この「城」は、萩城である。山口県萩市街北西部、毛利氏三十六万石の居城であったが、現在は石垣と堀のみしか残っていない。城の裏には、句が言うように日本海につづく湾が開けており、天高しの候にはまことに見事な眺めとなる。瑠璃色に凪いだ湾を指して、「湾一枚」とは言い得て妙だ。一昨年の秋、萩城址のある指月山麓から西北寄りの笠山で小中学の同窓会があり、出席した。笠山は日本一の小さい火山としても知られていて、ここは日本海に大きく突き出ている。この日は快晴だったこともあり、中腹のホテルから見た海は素晴らしく、まさに「大きな秋」がどこまでも広がっているのであった。見るたびにいつも思うのだが、太平洋よりも日本海のほうが「海」としての風格は上だ。それはさておき、たくさんの昔のクラスメートと海の見える場所にいることが、何か奇跡のように思われたことが忘れられない。私たちの学校はバスも通わぬ奥深い山の中にあったので、海などは見たこともないという友人は少なくなかった。見たことのある私とても、引っ越しのために乗った汽車の窓からチラチラとでしかなかった。それがいまや、みんなの前にはごく当たり前のように海があったのだ。いっしょに通学していたときから数えて,ほぼ半世紀。短いとも長いとも思える五十年という年月が、いつしか山の子を海にまで容易に連れてくることを可能にしたのである。思い出話に興じつつも、私は何度もそのことを思い、胸を突かれ、何度も「大きな秋」のひろがりに目をやったのだった。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 03112005

 父と子と同じ本買う文化の日

                           星野幸子

語は「文化の日」で秋。「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日だそうだが、その日だからといって、とりたてて何か文化的な行為をしようとも思わない。あ、世間は休みなのね。例年、そんなことをちらっと思うだけだ。句の場合もそうで、たまたま文化の日に父と子が本を買って戻ってきたのだろう。結果的には文化的行為となったわけで、作者は微笑した。しかし、二人が偶然にも同じ本を求めてきたことがわかって、今度は苦笑している。もったいないと思う気持ちと、やはり血は争えないという気持ちが、ごちゃ混ぜになった苦笑である。表面的にはそういう句であるのだが、作者の微苦笑の奥から滲み出てくるのは、もう一つ別の思いだろう。すなわち、「子」の成長を喜ぶ母心だ。この子が何歳かはわからないが、高校生くらいかな。「父」と同じ本を買うということは、大人の本を読めるほどに成長したということである。つい最近まではあり得なかったことが、ついにあり得ることになったのだ。一家に同じ本が二冊。もったいないのはもったいないのだけれど、作者には、そのもったいなさを嬉しく感じる気持ちのほうが強いのである。父子二人のたまたまの文化的行為が作者にもたらしたものは、ささやかだが、文化の日に似つかわしいプレゼントになった。子としても父としても、私には句のような体験はない。もったいないことに、自分で二冊、同じ本を買ってしまったことはあるけれど。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 04112005

 花芒金井克子の無表情

                           秋 尾

語は「(花)芒」で秋。芸能人を詠み込むのは難しいと思う。当人を知らない読者にはむろんわからないし、知っていてもそれぞれに印象が異なる場合も多いからだ。が、掲句は読んだ途端に、金井克子を知らない人には申し訳ないが、私はドンピシャリだと思った。この句、実は会員制の某掲示板に、昨日の午後書き込まれたものである。したがって、作者はあまり公にしたくないのかもしれないが、しかし良いと思った句は委細構わずに紹介するというのが、当歳時記の方針です。どこが良いって、花芒のすらりとしたたたずまいを金井克子のそれに通わせ、しかも花とはいえ、花そのものには何の愛想も無いところを、彼女の無表情に似ていると捉えたところだ。漢字表記を並べたところにも、その雰囲気が良く出ている。「はなすすき」では駄目なのだ。金井克子は十代でバレーのプリマドンナとしてデビューした人だから、顔の表情よりも全身での表現を体得しているはずである。つまり、テレビよりも舞台のほうを得意とする人だ。句の「無表情」は、テレビから受けた印象に違いなく、以前私も見ていて、しばしばその無表情にはヤキモキさせられたものだった。でも、彼女の無表情はどこか魅力的で、後を引く感じがあったのは、多く他の共演者が表情作りに懸命になっていたせいだろう。その落差が強い印象を残すところは、媚を売るなど知らぬげにそっけなく立っている花芒の魅力に通じている。そうだったのか、金井克子は植物にたとえれば花芒だったのか。と、作者のインスピレーションに感じ入ってしまった。掲句に触発されて調べてみたら、彼女も今年で還暦である。そしていまも、元気に舞台はつづけているそうだ。(清水哲男)


November 05112005

 母よりの用なき便り柿の秋

                           西山春文

語は「柿」で秋。「柿の秋」とあるが、この「秋」は季節を表すのではなく、旬の時期(収穫期)という意味だ。故郷の母親から封書が届いた。一瞬ぎくりとして、何事ならんと読んでみると、特別な用事もない便りだったので、ほっとしている。母の伝える近況や田舎の様子を読んでいるうちに、自然に懐かしくよみがえってきたのは、たわわに実をつけた柿の木のある風景だった。作者は、いわばその原風景からそこで暮らした日々のことなどを思いだして、しばし懐旧の念にふけったのだろう。これが「用ある便り」だったとしたら、そうはいくまい。「用なき便り」の効用である。最近は電話もあるので「用なき便り」も減ってきたとは思うけれど、しかし電話でよしなしごとを長時間しゃべれるのは母娘の間に限られるようで、母と息子が「用なき」長電話をする図はちょっと考えられない。何故なのかはよくわからないが、とにかく昔から男は肉親に対してあまり口をきかないものと相場が決まっているのだ。だから、句の母も「用なき便り」にしたわけである。かくいう私も例外ではなく、母から電話をもらっても三分ともたない。手紙が来てもなかなか返事を出さず、内心で「便りのないのは良い便りと言うじゃないか」とうそぶいたりしている。実にけしからん不肖の息子である。『創世記』(2003)所収。(清水哲男)


November 06112005

 掌にひたと吸ひつく竹を伐る

                           大島雄作

語は「竹(を)伐る」で秋。昔から「竹八月に木六月」と言い、陰暦の八月が竹、六月が木の伐採の好期とされ、陽暦では九月以降今頃くらいまでが竹の伐り時だ。少年時代、田舎にいたころは、竹はそこらへんにふんだんに生えていたから、何かというと伐ってきて使った。むろん所有者はいたはずだけれど、子供が一本や二本くらい伐るぶんには、黙認されていたようだ。近所の柿や栗を勝手に取って食べても、叱られなかったのと同じことである。釣り竿や山スキーの板、ちゃんばらごっこの刀身や野球のバット、小さい物では凧作りに使うヒゴだとか水鉄砲や竹笛用など。で、掲句を読んで、途端に久しく忘れていた生きた竹の感触を思い出した。懐かしや。句にあるように、たしかに生きている竹は、握ると「掌にひたと吸ひつく」のである。どういうことからなのか、理由は知らない。とりわけて寒い日などには、冷たい竹がひたと吸いつくことを知っているから、握る瞬間にちょっと躊躇したりした。仕事で大量に伐採する大人なら軍手をはめるところなのだが、子供にそんな洒落たものの持ち合わせは無い。ひんやりと吸いついてくる感触を嫌だなと思いながら、鉈をふるったものである。作者もまた、素手で握っている。だから伐ることよりも、吸いついてくる感触にまず意識がいっているわけだが、こう詠むことで、このときの山の生気までがよく伝わってくる。頭では作れない句の典型だろう。『鮎笛』(2005)所収。(清水哲男)


November 07112005

 立冬の病みて眩しきものばかり

                           荒谷利夫

や、「立冬」。暦の上では、今日から冬です。俳句と無縁な人なら「へえっ」程度ですませてしまうところだろうが、実作者にとっては、しばらく悩ましい日がつづく。体感的に秋でもあり冬でもありと曖昧で、なんとかしてくれと言いたくなってしまう。東京あたりでは、まだ紅葉も見られないというのに……。ところで、天気予報によれば、今日の東京地方は雨のち晴れで、日中の最高気温は26度にもなるという。これでは、秋でも冬でもなく夏である。だが、たとえ夏日になろうとも、季語にこだわる人はやはり冬に対して身構える気持ちにはなるだろう。たとえば風景のどこかに、暗くて寒い冬到来の予兆を嗅ぎ取ったりするだろう。すなわち、今日の心はいくぶん暗鬱なほうへと傾斜してゆく。けれども、それは健康者だからなのであって、病者は違うということを掲句が示している。病身の作者の目は、立冬らしく表に木枯しが吹き荒れていようとも、そこに自然の生命の躍動を覚えて眩(まぶ)しさを感じるというわけだ。何を見ても、自分の病いに比べれば暗いものはなく、素直に「眩しきものばかり」と言えるのである。話はずれるが、年齢的に私はたぶん、人生の立冬くらいのところにいるのではなかろうか。病気とは関係なく、そんな人生の立冬にある目からしても、これまた「眩しきものばかり」の世界を意識せざるを得ない。どんなに馬鹿な(大いに失礼)ガキどもを見ても、みんなキラキラと輝いて見えるようになってきた。やれやれ、である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 08112005

 秋鯖に味噌は三河の八丁ぞ

                           吉田汀史

欲の秋にふさわしい句だ。季語は「秋鯖(あきさば)」。鯖(夏の季語)は秋になると脂がのって美味になることから、特別扱いの季語になった。味噌煮だろう。鯖の味噌煮はべつだん珍しくはないけれど、我が家のは「味噌」が違う。なにしろ「三河(現・愛知県岡崎市)の八丁」を使っているのだからと、大いに自賛している。この手放しの無邪気さが、ぐんと読者の食欲を誘い出す。読んだ途端に,食べたくなった。といっても、私は八丁味噌煮の鯖を食べたことがない。だいたいが東京では八丁味噌(赤味噌)をあまり食べないせいもあるけれど、街の店などで八丁を使うにしても、他の味噌とブレンドするケースが多いからではなかろうか。純粋に八丁のみで煮ると、かなり酸味がきつそうである。でもきっと、この酸味が鯖にはしっくりと合うのだろう。などと、あれこれ想像してみるのも、こうした俳句の楽しさだ。ところで、鯖の味噌煮といえば、森鴎外の『雁』に特別な役割で登場する。「西洋の子供の読む本に、釘一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話は、青魚(さば)の未醤煮(みそに)が丁度釘一本と同じ効果をなすのである」。『雁』の語り手である「僕」の下宿の夕食に、たまたま鯖の味噌煮が出たために、物語は思わぬ方向へと……。読書の秋です。気になる方は、文庫本でどうぞ。俳誌「航標」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


November 09112005

 空狭き都に住むや神無月

                           夏目漱石

語は「神無月」で冬。陰暦十月の異称だ。今日は陰暦の十月八日にあたるから、神無月ははじまったばかりである。神無月の起源には諸説があってややこしいが、俳句の場合には、たいていが神々が出雲に集まるために留守になる月という説を下敷きにするようだ。たぶん、掲句もそうだろう。「則天去私」の漱石ならずとも、私たちは神と聞けば天(空)を意識する。一般的な「神、空に知ろしめす」の観念は、古今東西、変わりはあるまい。私のような無神論者でも、なんとなくその方向に意識が行ってしまう。句の漱石も同じように空を意識して、あらためて都の空の狭さを感じている。こんなに「空狭き都」に住んでいると、神無月同様に、普通の月でもさして神の存在を感じられないではないか。これでは、いつだって神無月みたいなものではないのかと、ひねりを効かせた一句だと読める。ここまで読んでしまうのは、おそらく間違いではあろうが、しかし句を何度も頭の中で反芻していると、この神無月が「例月」のように思えてくるから不思議だ。すなわち、神無月の扱いが軽いのである。その言葉に触発されただけで、むしろ重きは空に置かれているからだ。したがって、このときの漱石は「則天去私」ならぬ「則私去天」の心境であった。と、半分は冗談ですが……。その後「東京には空がない」と言った女性もいたけれど、明治の昔から、東京と神との距離は出雲などよりもはるかに遠かったのである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 10112005

 蜜柑山の中に村あり海もあり

                           藤後左右

語は「蜜柑(みかん)」で冬。近所の農家の畑に、数本の蜜柑の木がある。東京郊外で、昔は畑ばかりだった土地柄とはいえ、蜜柑の栽培は珍しい。通りかかると、今年もよく実っている。やわらかい初冬の日差しを受けて、黄色い実が濃緑の葉影にきらきらと輝いてい見える様子は、まことに美しい。「全て世は事もなし」、そんな平和な雰囲気に満ちている。心が落ち着く。掲句のように本格的な密柑山は見たことがないのだが、そんなわけで、ある程度の想像はつく。全山の蜜柑に囲まれて「村」があり、しかも「海も」あるというのだから、まるで一幅の絵のようである。この句に篠田悌二郎の「死後も日向たのしむ墓か蜜柑山」を合わせて読むと、それぞれの密柑山は別の場所のものだけれど、そのたたずまいが目に沁みてくる。ところで、我が家の近所に実った蜜柑を一度だけ食べたことがある。昨年の冬だったか。この農家では収穫後に即売をするらしく、ちょうどいま買ってきたところだと言って、近所の煙草屋のおばさんにいくつかもらった。おそらく、紀州蜜柑の系統なのだろう。小ぶりではあったが、とても甘くて美味しかった。今年も即売があるのなら、ぜひ買いたいとは思うのだが、その日については昔からのつきあいのある人にだけ教えるらしい。そりゃそうだ。たいした量が収穫できるわけでなし、即売とはいえ、ほとんどお裾分けに近い値段のようだし……。ま、余所者は黙って指をくわえているしかないだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 11112005

 ほのぼのと秋や草びら椀の中

                           矢島渚男

て古語だろうが、「花びら」ならぬ「草びら」とは何だろう。早速、辞書を引いてみた。「くさ‐びら【草片・茸】1あおもの。野菜。東大寺諷誦文稿『渋き菓くだもの苦き菜クサビラを採つみて』 2きのこ。たけ。宇津保物語国譲下『くち木に生ひたる―ども』 3(斎宮の忌詞) 獣の肉」[広辞苑第五版]とある。掲句に当てはめるとすると、野菜でも茸(きのこ)でもよいとは思うが、やはり「秋」だから、ここは茸と読んでおきたい。それはそれとして、なかなかに含蓄のある言葉ですね。この句、何と言っても「ほのぼのと」が良い。普通「ほのぼのと」と言うと、陽気的には春あたりの暖かさを連想させるが、それを「秋」に使ったところだ。読者はここで、一様に「えっ」と思うだろう。何故、「秋」が「ほのぼの」なのかと……。で、読み下してみると、この「ほのぼのと」が、実は「椀(わん)の中」の世界であることを知るわけだ。つまり、秋の大気は身のひきしまるようであるが、眼前の熱い椀の中には旬の茸が入っていることもあり、見ているだけで「ほのぼのと」してくるというわけだ。すなわち、一椀から「ほのぼのと」立ち上ってくる秋ならではの至福感が詠まれている。余談だが,最初に読んだときに、私は「ほろほろと」と誤読してしまった。目が良くないせいだけれど、しかし自分で言うのも変なものだが、いささかセンチメンタルな「ほろほろと」でも悪くはないような気がしている。この場合の椀の中味は、高価な松茸を薄く小さく切った二、三片でなければならないが(笑)。俳誌「梟」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


November 12112005

 子供らの名を呼びたがふ七五三祝

                           福田甲子雄

語は「七五三(祝)」で、冬。「七五三祝」の場合は「しめいわい」と読む。男の子は数え年三歳と五歳、女の子は三歳と七歳を祝う。十一月十五日だが、今日と明日の休日を利用して氏神に詣でるお宅も多いだろう。句の「子供ら」は、お孫さんたちだろうか。たまたまこの年に何人かの祝いが重なって、作者宅に集まった。むろん、直接この年の七五三には関係のない兄弟姉妹も集まっているから、いやまあ、その賑やかなこと。上機嫌の作者は、何かと「子供ら」に呼びかけたりするわけだが、何度も「名前を呼びたがふ(呼び間違える)」ことになって苦笑している。覚えのある読者もおられるに違いない。あれは、どういう加減からなのか。その子の名前を忘れているのではないのだが、咄嗟に別の名前が出て来てしまう。すぐに訂正するつもりで、またまた別の名前を呼んでしまうことすらある。孫大集合などは滅多にないことなので、迎える側が多少浮き足立っているせいかもしれない。でも、それだけではなさそうだ。考えてみれば名前は人を識別する記号だから、識別する必要のない環境であれば、名前などなくてもよい理屈だ。掲句のケースだと、たくさんの孫に囲まれて作者は大満足。環境としては、どの孫にも等分の愛情を感じているわけで、すなわち記号としての名前などは二の次となる。だから「呼びたがふ」のも当たり前なのだ。と思ってはみるものの、しかしこれはどこか屁理屈めいていそうだ。何故、しばしば間違えるのか。どなたか、すかっとする回答をお願いします。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)


November 13112005

 枯園に向ひて硬きカラア嵌む

                           山口誓子

のところ、にわかに冬めいてきた。紅葉が進み、道に枯葉の転がる音がする。季語は「枯園(かれその)」で冬。草も木も枯れた庭や公園を言う。他の季節よりも淋しいが、冬独特のおもむきもある。作者は窓越しにそんな庭を見ながら、{カラア(collar)}を嵌(は)めている。さびさびとした庭に向かってカラーを嵌めていると、首筋に触れるときの冷たさが既に感じられ、それだけで心持ちがしゃきっとするのである。冬の朝の外出は嫌なものだけれど、カラーにはそんな気持ちを振り払わせる魔力がある。というよりも、カラーを嵌めることで、とにかく出かけねばならぬと心が決まるのだ。その意味では、サラリーマンのネクタイと同じだろう。今日この句を読むまでは、カラーのことなどすっかり忘れていた。小学生から大学のはじめまで、ずうっと学生服で通していたにもかかわらず、である。思い出してみると、とにかく句にあるように「硬い」し、それこそ冬には冷たかった。だが不思議なことに、あんな首かせを何故つけるのかという理由は、まったく知らないでいた。一種のお洒落用なのかな(「ハイカラ」なんて言葉もあることだし……)と思ったことはあり、それも一理あるらしいのだが、なによりもまず襟の汚れを防ぐためのものだと知ったのは、カラーに縁が無くなってからのことだった。最近では、ライトにあたると光るカラーが開発されたらしい。真っ黒な学生服で夜道を歩くとドライバーからはよく見えないので、交通安全用というわけだ。なるほどねえ。カラーも、それなりに進化してるんだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 14112005

 目薬に冬めく灯り校正室

                           小沢信男

語は「冬めく」。風物がすっかり冬になっわけではないが、五感を通してそこはかとなく感じられる冬の気配を言う。掲句の「冬めく」は、まさにこの本意にぴったりの使い方だ。雑誌の編集者は最後の追い込み段階になると、印刷所にある「校正室」に出かけていく。昔の印刷所は二十四時間稼働していたので、編集者側も徹夜で校正することが多かった。なにしろ長時間、原稿とゲラ刷りをにらんでの仕事だから、よほど目の良い人でも、そのうちにしょぼしょぼしてくる。そんなときには、とりあえず「目薬」をさす。この句は、目薬をさしたすぐ後の印象を詠んだものだろう。さしたばかりの目薬が目に馴染むまでの数秒間ほど、あたりのものがぼやけて写り、なかで「灯り(あかり)」はハレーションを起こして滲んで見える。このときに作者は、その灯りにふっと冬の気配を感じたというわけだ。電灯などの灯りに季節ごとの変化などないはずなのに、そこに「冬めく」雰囲気を感じるというのは、五感の不思議な働きによるものである。また、編集者体験のある人にはおわかりだろうが、この句のさらなる魅力は、根を詰めた仕事から束の間ながら解放されたときの小さな安らぎを描いている点だ。まことにささやかながら、こんなことでも気分転換になるのが校正というものである。校正で大事なことは、原稿の意味を読んではいけない。ただひたすらに、一字ずつ間違いがないかどうかをチェックする索漠たる仕事なのだ。だから、目薬も単なる薬品以上の効果をもたらす必需品とでも言うべきか。元編集者としては、実に懐かしい抒情句と読んでしまった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


November 15112005

 重ね着の中に女のはだかあり

                           日野草城

語は「重ね着」で冬。寒いので、何枚も重ねて着ること。暖房の不完全な時代の寒さしのぎには、とりあえずこれしかテがなかった。掲句はそんな重ね着姿の女性を目にして、咄嗟にできたのだと思う。頭の中で、こねくりまわした句ではない。でも当たり前じゃないか、などとは言うなかれ。重ね着であろうがなかろうが、何をどう着てても「中に女のはだか」はあるのだけれど、しかし作者は重ね着だからこそ「はだか」を感じているのである。というのも、重ね着はさして人目を気にしない無造作な着方だからだ。ファッションもコーディネートもあらばこそ、とにかく寒いので、そこらへんのものを着込んでしまう。傍目からは、もうモコモコ状態である。きちんと着たときには、衣服は身体そのものと化すが、モコモコのときの衣服は身体とは遊離して見えてしまう。つまり衣服は衣服として、「はだか」は「はだか」として別々の存在と写るわけだ。モコモコだと、これはもうズボッと簡単に抜けてしまいそうに思われる。だから咄嗟の印象が、はだかにつながったと読むべきだろう。着込めば着込むほどに、かえって「中のはだか」を意識させるところが面白い。加えて、着込んだ当人にその自覚がまったくないところが、ますます面白い。人間心理の綾とでも言うべきか。世の中、誰が何をどう見て何を感じているのか。油断もスキもあったものではない。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 16112005

 水風呂に戸尻の風や冬の月

                           十 丈

語は「冬の月」。この寒いのに「水風呂」に入るとは、なんと剛胆な人かと驚いたが、いわゆる「みずぶろ」ではなかった。柴田宵曲の解説を聞こう。「水風呂というのはもと蒸風呂に対した言葉だ、という説を聞いたことがある。橋本経亮などは、塩浴場に対する水浴場ということから起こったので、居風呂(すえふろ)という名は誤だろうといっている。いずれにしても現在われわれの入るのは水風呂のわけである。この句もスイフロで、ミズブロではない」。そうだろうなあ、いくらなんでもねえ。だとしても、寒そうな入浴だ。たてつけが悪いのか、風呂場の「戸尻(とじり)」が細く透けている。そこから冷たい冬の風が吹き込んできて、煌煌と照る月も見えている。冬の月は秋のそれよりも美しいとはいうけれど、この場合に風流心などは湧いてこないだろう。寒い思いが、いや増すだけである。昔の冬の入浴は、楽ではなかったということだ。と言いつつも、実は私の心には、この程度ではまだ極楽だなという思いはある。というのも、田舎にいたころの我が家の風呂には、戸尻の隙間どころか、屋根も壁もなかったからだ。まさに、野天風呂であった。夏など気温の高い季節ならともかく、冬には往生した。雪の降るなか、傘をさして入ったこともある。寒風に吹きさらされての入浴などはしょっちゅうで、あれでよく風邪をひかなかったものだと、我がことながら感心してしまう。「あおぎ見る星の高さや野天風呂」。当時の拙句であるが、まったく切迫感がない。温泉にでもつかっている爺さんの句のようで、いやお恥ずかしい。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


November 17112005

 書庫梯子降りずに釣瓶落しかな

                           能村研三

語は「釣瓶落し」で秋。夕陽の沈み方の例えだが、なるほど秋から冬の日没はあっという間だ。誰が言い出したのかは知らねども、うまいことを言ったものである。もっとも、最近では「釣瓶(つるべ)」そのものが無くなってきたので、我々の死後には確実に死語となるだろう。誰か、いまのうちにうまいこと言い換えておけば、近未来の季語として認知される可能性は大である。それはさておき、掲句の面白さは、どこにあるのだろうか。「書庫梯子」は、そんなに高くはない。高くても、せいぜいが大人の背丈くらいかな。書庫は書籍を保護する必要上、明かり取りの窓は大きく作られてはいない。小さな窓が、天井に近いところあたりにぽつりぽつりとつけてある。だから、床に立っていると表は見えない理屈だが、著者は梯子に乗っていたので、たまたま見える位置にいたわけだ。資料探しに夢中になっているうちに、ふと外光の変化に気がついた。で、小さな窓から表を見やると、まさに釣瓶落しの秋の陽が沈んでゆく。もうこんな時間か、そろそろ引き揚げなければ。と思いつつも、そのまま作者は梯子を「降りずに」、しばし釣瓶落しに魅入られたかのように動かなかったのだった。降りる夕陽と、降りない私と……。もとより夕陽と私の位置の高さはとてつもなく違うのだけれど、そういうことに関係なく、巨大な夕陽が早く降り、小さな私が降りずにいるというコントラストには微笑させられる。私もそうだが、たいていの人は書庫や図書館から出てくると、人工的な町並みよりも並木だとか遠い山並みなどの「自然」にひとりでに目がいってしまうものだろう。それを梯子のおかげで、本だらけの環境のなかで体験できたと詠んだところに、作者の鋭敏な神経が見てとれる。現代俳人文庫『能村研三句集』(2005・砂子屋書房)所収。(清水哲男)


November 18112005

 焼藷を買ひ宝くじ買つてみる

                           逸見未草

語は「焼藷(やきいも)」で冬。いよいよシーズンですね。我が家の近辺にも、毎晩のように売りにきます。いわゆる流しの焼芋屋がうまれたのは、明治期と言われています。ただし、掲句の焼藷は流しから買ったのではなく、近くに宝くじ売り場があるのですから、町中の店からでしょう。良い匂いに誘われて、作者はふと買う気になって焼藷を買った。小さな衝動買いというわけだが、ほこほこと暖かい包みを手にして歩きはじめると、今度は宝くじ売り場が目にとまり、これまたなんとなく何枚かを買ったというのである。ただそれだけのことながら、読者にはこのときの作者の気持ちがよくわかるような気がする。それは句によって、作者の心のゆとりが感じられるからだ。焼藷も宝くじも、べつに一大決心して買うようなものじゃない。かといって、心が気ぜわしかったりすると、そんなものの前は通り過ぎてしまう。こういうものが目にとまるのは、その人の心に普段よりも余裕があるせいである。余裕があるからたわむれに焼藷を買い、連鎖反応的に宝くじを求める気持ちわいてきた。ほこほこと手に暖かい焼藷と、宝くじに当るかもしれないという心の暖かさとが、読者をもなごませる……。でも不思議なもので、この買い物の順序が逆だと、句の印象はまったく変わってしまう。最初に宝くじを買ったとすると、これは衝動買いではなく、意識的に目がけての買い物になってしまうからだ。で、次に焼藷と来ては、作者がなんだか世知辛い世の中であくせくと生きているように思えてきて、わびしくすら感じられる。この句では、この順序が大切なのだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 19112005

 つはぶきはだんまりの花嫌ひな花

                           三橋鷹女

石蕗の花
語は「つはぶき(石蕗の花)」で冬。葉が蕗(ふき)に似ていることからの命名だ。石蕗の花も、こうきっぱりと嫌われては立つ瀬がないだろう。この花の印象は、とにかく陰気である。「だんまりの花」とは、言い得て妙だ。歳時記をひっくりかえしてみても、石蕗の花の句にはあまり明るいものはない。「つはのはなつまらなさうなうすきいろ」(上川井梨葉)など。しかし、この写真のようにクローズアップしてみると、ちっとも暗くはないことがわかる。菊か、もっと言えば向日葵みたいだ。そう見えるのは、たぶんこの写真に濃緑色の広い葉が写ってないせいである。あの葉っぱと黄色の花との取り合わせが、どうやら暗さを演出する元凶のようだ。そして、もう一つ。暗いイメージを演出するものに、石蕗の咲く環境がある。自生のものは海岸に多いが、なにしろ冬の海を前にしているから、かなり群生していても、どうしても寂しそうに見えてしまう。数年前に、静岡の海岸でみたことがある。また園芸用だと、宿屋などの日本式の庭の、しかも何故か隅っこのほうに植えられているので、これまた暗いイメージに拍車がかかる。そんなこんなで、可哀想に石蕗の花は未来永劫侘しく咲きつづけなければならぬようだ。そんななかで、こういう句があった。「老いし今好きな花なり石蕗の咲く」(沢木てい)。なるほど、老いてから好きになる花としてはぴったりかもしれない。侘しく見えるのは若いときの話で、高齢になってくるとひっそりと咲くさまが我が身のようでもあり、そのあたりがいとしく思えるからなのだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 20112005

 冬すでに路標にまがふ墓一基

                           中村草田男

後、一瞬の戸惑いを覚える。だが、この戸惑いこそが掲句の命だろう。戸惑うのは、「冬すでに」とあるけれど、「何が『冬すでに』どうなったのか、どうなっているのか」については何も書かれてないからだ。で、いきなり「路標とまがふ墓一基」と「冬すでに」を断ち切った光景が現れる。読者には、上五の「冬すでに」がどのように下七五にかかってゆくのかという頭があるから、「あれっ」と思うわけだ。そこでもう一度、句全体を見渡すことになる。すると、この「冬すでに」の未完結性が一種の余韻となって、句全体をつつんでいることがわかってくる。もっと言えば、漠然としていてもどかしいような「冬すでに」があるから、路傍に打ち捨てられた「墓一基」の姿がより鮮明になってくるのだ。「路標」は、たとえば「江戸まで十里」といったような道しるべのこと。よく見ないとそんな路標と「まがふ」(見まがう)ほどに、一つの小さな墓が打ち捨てられている。たぶん、墓を守るべき子孫や縁者も絶えてしまったにちがいない。しかし、この墓の下に眠っている人にも、むろん人生はあった。どんな人で,どんな生涯を送った人なのか。作者はしばし、墓の前にたたずんでいる。人の世の無常を感じている。現世の季節は「冬すでに」到来しており、どのような人であれ、その運命はいずれはこの墓と同じように、寒い季節に打ち捨てられさらされるのだと、作者は思わずにはいられなかったのだ。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 21112005

 練炭の灰練炭の形で立つ

                           中村与謝男

語は「練炭(れんたん)」で冬。懐かしや。物心ついた頃の我が家の暖房には練炭ストーブが使われていたので、練炭との出会いはずいぶんと古い。句の情景も、見慣れたそれである。でも、掲句の中味が古いのかと言えば、まったく逆だろう。私よりも二十歳近く年下の作者にしてみれば、この情景はむしろ新鮮なのだ。昔だと、どこででも見られたから当たり前すぎて、こういう句は成立しにくかった。いまではめったに目にすることがないので、昔の当たり前をまじまじと見るようなことも起きてくるというわけだ。言われてみれば、なるほど「灰」になっても原型をとどめている練炭のありようは面白い。むろん、木や紙や何かを燃やしても、そのままそおっとしておけば原型はとどめるが、練炭の場合は灰が固くて強いから、ちょっとやそっとの振動などでは毀れないのが特長だ。燃え尽きても崩れない。そこには意思無き練炭にもかかわらず、さながら梃子(てこ)でも動かぬ強固な意思ある物のように見えてくるではないか。句は、そのあたりのことを言っているのだと思った。練炭は一定の温度を長時間保ったまま燃えるので便利なのだが、欠点は一酸化炭素を出しすぎる点だ。したがって、現今のように密閉された住宅では、中毒の危険があるので使えない。最近たまに新聞で練炭の文字を見かけると、車の中での心中事件に使われていたりして、この国の燃料としてはすっかり過去のものとなってしまった。『楽浪』(2005)所収。(清水哲男)


November 22112005

 落葉曼荼羅その真ン中の柿の種

                           鳥海美智子

語は「落葉」で冬。「曼荼羅(まんだら)」は、密教で宇宙の真理を表すために、仏菩薩を一定の枠の中に配置して描いた絵のこと。転じて、浄土の姿その他を描いたものにも言う。が、この句では深遠な仏教的哲理を離れて、いわゆる「曼荼羅模様」ほどの意味で使われているのだろう。すなわち散り敷いた落葉が、さながら曼荼羅模様のように広がって見えている。で、ふと気づいたことには、その「真ン中」にぽつりと「柿の種」が一粒落ちていた。柿の種も落葉も色が似てはいるが、その本質はまったく異なっている。前者は植物が新しい命を生み出すためのものだし、後者は植物自身がおのれの命を守るために振り捨てたものだ。それが、同じ曼荼羅模様の一要素として同居している。柿の種にしてみれば、「おいおい、オレはこいつらとは違うぜ。どうなってんの」とでも言いたくなるところか。そう考えると、どこか剽軽な情景でもあって面白い。ただし、わたしのかんぐりだが、作者は実景をそのまま詠んだのではない気がする。落葉を見ているうちに、そこに見えない柿の種が見えてきたのではあるまいか。つまりここで作者は、柿の種という「味の素」ならぬ「詩の素」を加えたわけだ。忠実な写生も大事だが、こういう句作りもあってよい。ところで、この柿の種。あのぴりっと辛いあられ状の菓子と見ても、少しく解釈はずれてしまうけれど、なかなか捨て難い「味」がしそうだ。『水鳥』(2005)。(清水哲男)


November 23112005

 体型に合はぬ外套文語文

                           前田半月

句も収載されていることから、新刊の大岡信著『新・折々のうた8』(岩波新書)が送られてきた。パラパラと拾い読みしているうちに、この句に目がとまった。解説によれば、作者は「俳句形式の中で『言葉』についての論議をくりひろげようと試みているようだ」として、「擬態語のなかでぬくぬく竈猫」「彫像は直喩なりけり日脚伸ぶ」が引かれている。なるほど、面白い試みだ。しかし反面、こじつけ過ぎにならぬよう工夫するのが大変だろうなとも思う。掲句の季語は「外套(がいとう)」で冬。「文語文」への違和感を詠んでいる。どうも「文語文」というヤツは、(自分の)体型に合わない「外套」みたいで、しっくり来ないというわけだ。まあ、これは作者の思いだから額面通りに受け取るしかないが、古風な文語文を敬遠するのに、同じく古風な「外套」という言葉をもってきたところが微笑を誘う。「(オーバー)コート」ではなく「外套」を使ったのは、むろん意図してのことに違いない。「コート」の比喩で文語文を撃つのでは当たり前。あえて古い言葉の「外套」を持ち出して撃っているから、にやりとさせられるのである。ところで「外套」と言えば、多くの人がゴーゴリの短編を思い出すだろう。登場時の主人公が着ていた外套は、体型に合うとか合わないとかの問題以前のつぎはぎだらけのボロボロで、みんなから(平井肇訳では)「半纏(はんてん)」と呼ばれているような代物だった。そんな外套で、主人公は厳冬のペテルスブルグを歩いていた。十九世紀ロシアの悲しき外套よ……。この外套ならば、文語文にはむしろ馴染みそうだなと思ったことだった。『半雨半晴』(2004)所収。(清水哲男)


November 24112005

 校則で着るやうなセーターを着て

                           田口 武

語は「セーター」で冬。何の気なしに、ふと自分の着ているセーターのことが気になった。色は、紺色だろうか。首周りはVネックで、まことに変哲もないものだ。若いときにはお洒落を意識して、「校則」に抵触するかしないかのぎりぎりのセーターを着たものだったが、いま身につけているのは校則の指示にあった見本みたいな代物である。若さ、お洒落。そういうものから完全に離れてしまった自分に、ひとり作者は苦笑している。作者四十代の句であるが、この句への反応は読者の世代によってまちまちだろう。校則が戦後の生徒を縛りはじめたのは、この国が高度成長期にさしかかったころからだからだ。私の中学高校時代には日本全体が貧乏だったので、あるにはあった校則も十分に機能していなかった。とくに服飾に関しては、あれこれとうるさい規則を設ける以前の問題として選択肢が少なかったし、それよりも何よりもとにかく当座の服装を何とかすることで精一杯だった。お洒落をする経済的な余裕などなかったわけで、学校でセーターの色や形まで決めるなどはナンセンスの極みと言おうか、近未来にそんな校則が登場することになろうなどとは露思わない世代だったということになる。したがって、私には実感的には掲句はわからない。ただ、ずっと後の世代でないと作れない句だなと見入ってしまったのだ。句に触発されて現今の校則をいくつか読んでみて、とりわけて女子高のやかましさ(制服規定はもちろん、髪型からスカート丈まで)は凄いものだと、これまた見入ってしまったことである。『さうぢやなくても』(2005)所収。(清水哲男)


November 25112005

 茹ブロッコリー団塊世代物申す

                           金崎久子

語は「ブロッコリ(ー)」で冬。一年中出回っているが、旬は十一月〜二月頃である。なるほど、ブロッコリの花のつぼみは「団塊」状になっている。作者は団塊の世代なのだろうが、茹でたブロッコリを口に運ぼうとして、ふっと自分の世代に似た野菜だなと思い、見直すと何か「物申す」ような、いかにも物言いたげな表情に見えたというのである。いわゆる「2007年問題」を前にしたいま、この句を読む同世代の人たちには大いに共感を呼びそうだ。2007年以降、この国はヨーロッパなどに先駆けて、本格的な高齢者時代を迎える。そして、そのすぐ先には「超」高齢化社会が待ち受けている。こんなにも高齢者が多い社会は人類はじまって以来であり、古今東西のどんな国や地方も一度も経験したことはないのだ。人口統計上では予測されていたとはいえ、とにかく未知の世界なのだから、実際にはじまってみなければわからないことばかりだ。おそらくは、予想もしなかった事態がいろいろと起きてくるにちがいない。とどのつまりは、国家による強制的安楽死が具体化するかもしれないし、そこまではいかなくともそれに準じた高齢者の扱いが検討されるだろう。いずれにしても高齢者人口の中核をなす団塊の世代が、そんな状況に唯々諾々と従い、座して死を待つわけにはいかない。いまのうちから、大いに「物申す」必要がある。何も好きこのんで団塊世代を選んで生まれてきたわけではないのだから、ブロッコリのようにみないっしょくたに茹でられるいわれはない。自分たちの力で、つまはじきしにくる奴らと闘いつつ生きつづけなければならないだろう。『花の歳時記 冬・新年』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


November 26112005

 北陸や海照る屋根の干布団

                           岡本 眸

語は「(干)布団」で冬、「蒲団」に分類。句は「富山三句」のうち。富山には秋にしか行ったことがないが、テレビの天気予報で見ているだけでも、富山をはじめ冬の「北陸」地方の晴れ間は多くないことがわかる。連日のようにつづく鈍色の空。それがたまに良く晴れたとなると、きっと句のような情景があちこちで見られるのだろう。二階の窓から屋根いっぱいに干された布団が、海への日差しの照り返しも受けてほっこりと暖まってゆく光景である。一見なんということはない句だけれど、この情景はそれだけで読者の心をほっこりとさせる。しかも「北陸や」と大きく張った句柄が、いやがうえにもほっこり感を大きくしてくれるのだ。さすがは富安風生門らしい詠みぶりである。東京あたりでは一戸建ての住宅が少なくなったせいもあるけれど、なかなかこういう情景にはお目にかかれない。それに昔から、屋根に直接布団や干し物を広げる習慣もなかったようだ。ここ数年のうちで私が目撃した珍しい例では、干してあるのではなかったが、初夏の屋根いっぱいに鯉のぼりを広げたお宅があった。新築の一戸建て。きっと前に住んでいた家では大きな鯉のぼりを立てるスペースがあったのに、引っ越してきてそれがなくなってしまったのだ。だから仕方なく……、ということのようだと思ってしばらく見ているうちに、なんだかとても切ない気持ちになったことを思い出す。「俳句」(2005年12月号)所収。(清水哲男)


November 27112005

 すき焼きを囲むとなりの子も加はり

                           若林卓宣

語は「すき焼き(鋤焼)」で冬。ご馳走だったなあ、昔は。年に何度もは、食べられなかった。何か特別な日。サラリーマンの家庭だと、ボーナスが出た日の夕食だとか、とにかくその日の思いつきで食べられるような料理じゃなかった。牛肉が高かったせいである。掲句も、そんな時代の句だと思う。何かのお祝いだろう。せっかくの「すき焼き」だからと、わざわざ「となりの子」も呼んでやっている。想像するに、その子の両親にも如何かと声をかけたのだが、さすがに大人は遠慮したのではあるまいか。そんな時代を経た人でないと、この句のどこが「味」なのかはわかるまい。この子がおずおずと牛肉に箸を伸ばす様子すら、目に見えるようだ。そして時は流れ、この子が大きくなって社会人となり、見渡してみたら、もう「すき焼き」はご馳走でも何でもなくなっていた。となりの子を呼んだって、来やしない。いやその前に、すき焼き(ごとき)で声をかけるなんぞが常識外れになってしまっている。しかし、こんな時代になっても、私の同世代はいつまでも「となりの子」意識が抜けないから、いまだにご馳走という思いが強い。幾人かで囲んでいるときに、たとえば誰かがもりもりと肉を食べたりすると、気になって仕方がない。現代っ子は、すき焼きよりもハンバーグが好きなんだそうだ。つまり、いまやご馳走という観念や感覚自体が社会から消えてしまったというわけだろう。ああ、食べたくなってきたな、すき焼き。『現代俳句歳時記・冬(新年)』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 28112005

 小春日やものみな午後の位置にあり

                           清水青風

語は「小春(日和)」で冬。陰暦十月の異称、「小六月」とも。立冬を過ぎてからの春のように暖かい晴れた日の状態が「小春日和」だ。「小春風」「小春空」などとも使う。掲句の「位置」という言葉からすぐに思い出したのは、木下利玄の代表作「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」である。高校生のときに、教室で習った。静かに咲いている牡丹の花の様子を描いて、「位置のたしかさ」とはまた、言い得て妙だ。咲く「位置」に一分の狂いがあっても、その美しさは減殺されてしまう。動かし難いその「位置」にあってこその牡丹花の美しさであり、品格なのだ。掲句の「位置」もまた、利玄の歌のように「ものみな」動かし難いことを指して、「小春日和」のありようを活写している。暖かい初冬の午後の静けさ。淡い日を浴びて「ものみな」それぞれに影を落としているが、それらがみな「午後の位置」にあると認識することで、小春日和の穏やかさがいっそう強調され、増してくるのである。で、この句を読んでもう一つ思い出したのが、山口百恵の歌った「秋桜」だった。明日嫁ぐ娘が、母親に対する気持ちを歌っている。途中に「♪こんな小春日和の穏やかな日は/あなたの優しさが沁みてくる……」とあって、この部分の歌詞というよりも、ここで転調するさだまさしのメロディが、それこそ動かし難く小春日和のありようを告げている。暖かいがゆえに寂しさが募る「午後の位置」を、音楽的に表現した傑作だと思う。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 29112005

 アカーキイ・アカーキエヴィチの外套が雪の上

                           中田 剛

語は「外套(がいとう)」とも「雪」ともとれるが、メインとしての「外套」に分類しておく。さて、ついに出ました「アカーキイ・アカーキエヴィチ」。数日前にも触れたゴーゴリの小説「外套」の主人公だ。したがって、この作品を読んでいないと句意はわからないことになる。アカーキイ・アカーキエヴィチ。この特長のある名前は、私の若かったころには多くの人にお馴染みだったけれど、現在ではどうだろうか。19世紀のロシア小説などは、もう若い人は読まないような気がする。ストーリーはいたって単純で、うだつの上がらぬ小官吏であるアカーキイ・アカーキエヴィチが、一大決心のもとに外套を新調する。やっとの思いで作った外套だったのに、追いはぎにあって盗られてしまう。被害届を出したり、その筋のツテを頼って必死に取り戻そうとするが上手く行かず、そうこうするうちに悲嘆が嵩じて死んでしまうといったような物語だ。小説はもう少しつづくのだが、読み終えた読者が気になるのは、ついに見つからなかった彼の外套が、ではいったい何処にあるのかということである。おそらく句の作者もずっと気にしていて、とりあえずの結論を詠んでみたというところだろう。長年探していた外套が、なあんだ、ほらそこの「雪の上」にそのままであるじゃないか、と。そう言いきってみて、作者は少し安堵し、私のような読者もちょっぴりホッとする。厳寒のペテルブルグと往時の社会環境が、ひとりのしがない男を不幸に追いやっていく「外套」が日本人にも共感を生んだのは、やはり多くの人が理不尽にも貧しかったせいだろう。誰もそんな時代を望まないけれど、なんだかまた、そんな時代が新しい形でやってきそうな兆しは十分にある。「俳句」(2005年12月号)所載。(清水哲男)


November 30112005

 汁の椀はなさずおほき嚔なる

                           中原道夫

語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。私などは「くしゃみ」と言ってきたが、「くさめ」は文語体なのだろうか。日常会話では聞いたことがないと思う。句で嚔をしたのは、作者ではない。会食か宴席で、たまたま近くにいた人のたまたまの嚔である。ふと気配を感じてそちらを見ると、「ふぁふぁっ」と今にも飛び出しそうだ。しかも彼は、あろうことか汁がまだたっぶりと入った椀を手にしたままではないか。「やばいっ」と口にこそ出さねども、身構えた途端に「おほき嚔」が飛び出してきた。このときに、汁がこぼれたかどうかはどうでもよろしい。とりあえずの一件落着に、当人はもとより作者もまたほっとしている。安堵の句なのだ。汁碗を持ったままの嚔は滑稽感を誘うが、汁碗でなくとも、何かを持ったまま嚔をしたことのある人がほとんどだろう。収まってみれば、何故持ったまま頑張ったのかがわからない。よほどその汁の味が気に入っていたのだという解釈もなりたつけれど、そうではなくて私は、汁碗をもったままのほうがノーマルな感覚だと思う。それはこれから嚔をする人の心の中に、たとえ出たとしても「おほき嚔」でないことを願う気持ちがあるからだ。汁碗を持って我慢しているうちに、止まってしまうかもしれないし……。すなわち「おほき恥」を掻きたくないために、最後まで平然を装う心理が働くからなのである。だから、この句は誰にでもわかる。誰にでも、思い当たる。ただし、しょっちゅう嚔が出る人はこの限りではない。出そうになったらさっと上手に汁碗を置いて、すっと後ろを向くだろう。『銀化』(1998)所収。(清水哲男)




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