今年も良く香った金木犀があらかた散ってしまった。近くの百日紅には小さな青い実が。




2005ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21102005

 新宿ははるかなる墓碑鳥渡る

                           福永耕二

語は「鳥渡る」で秋、「渡り鳥」に分類。掲句は、作者の代表作だ。作者が渡り鳥になって、新宿の高層ビル街を鳥瞰している。それぞれのビルはさながら「墓碑」のようだと解釈する人が多いようだが、新宿に思い入れの強い私にはそうは思えない。むしろ作者は新宿を遠く離れた地にいて、「はるかなる」街を遠望している。実際に見えるかどうかは無関係であり、たとえ見えなくとも、心象的に高層ビルとその上空を渡る鳥たちが鮮やかなシルエットとして見えているということだろう。十代の終り頃から十数年間、私は新宿に魅入られて過ごした。京都での大学時代にも、東京の実家に戻るたびに、せっせと出かけていったものだ。紀伊国屋書店が、現在地でまだ木造二階建てだったころである。新宿のどこがそんなに好きだったのかは、とても一言では言い表せないが、街の猥雑さが若い心のそれとぴったり呼応していたとでも言うべきか。いろいろな影響を受けた街だけれど、とりわけて今につづく私の交友関係の多くは、新宿を抜きにしては無かったものである。そんな新宿だが、最近はほとんど出かけることもなくなってしまった。街も変わり、人も変わった。だから、私の新宿はもはや心の裡にしか生きていない。掲句に従えば、現実の新宿は青春の「墓碑」そのもののように写る。切なくも、心魅かれる句だ。ちなみに、作者は私と同年の1938年(昭和十三年)生まれ。句界での未来を嘱望されつつ、わずか四十二歳という若さで亡くなっている。『踏歌』(1980)所収。(清水哲男)


October 20102005

 火の粉撒きつつ来るよ青年焼芋屋

                           山田みづえ

語は「焼芋(焼藷・やきいも)」で冬だが、実際の「焼芋屋」商売は季語に義理立てなんかしちゃいられない。我が家の近辺にも、かなり冷え込んだ一昨夜、颯爽と登場してまいりました。焼芋屋が「颯爽と」はちょっと違うんじゃないかと思われるかもしれないが、これが本当に「颯爽」としか言いようがないのだから仕方がない。というのも、軽トラに積んだ拡声器が流していたのは、例の売り声「♪やぁ〜きぃも〜〜 やぁ〜きぃも〜 いしぃ〜やぁ〜きいも〜〜 やぁ〜きぃも〜」ではなくて、何とこれがベートーベンの「歓喜の歌」だったのだから……。意表を突くつもりなのか、それともクラシック好きなのか、遠くから聞こえてきたときには一瞬なんだろうと思ってしまった。掲句の焼芋屋の趣も、かなり似ている。焼芋屋というと何となく中年以上のおじさんを連想してしまうが、これがまあ、実はまだ若々しい青年なのでありました。その若さの勢いが、屋台の「火の粉撒(ま)きつつ」とよく照応していて、出会った作者は彼の元気をもらったように、明るい気持ちになっている。季語「焼芋」の醸し出す定型的な古い情趣を、元気に蹴飛ばしたような句だ。彼の売り声は、どんなだったろうか。昔ながらの「♪やぁ〜きぃも〜〜 やぁ〜きぃも〜」も捨て難いけれど、売り声もこれからはどんどん変わっていくのだろう。でもどうひいき目に考えても、ベートーベンではとても定番にはなりそうもないけれど。『手甲』(1982)所収。(清水哲男)


October 19102005

 殺めては拭きとる京の秋の暮

                           摂津幸彦

語は「秋の暮」。秋の終りのことではなく、秋の日暮れのこと。昔はこの両方の意味で使われていたが、今では日暮れ時だけに用いる。ちなみに、秋の終りは「暮の秋」と言う。千年の都であり国際的な観光都市として知られる京都は、先の大戦でも戦火を免れ、いまや平和で平穏な街というイメージが濃い。なんだか昔からずっとそのようであった錯覚を抱きがちだが、歴史的に見れば「京」は戦乱と殺戮にまみれてきた土地でもある。古くは十年間に及んだ応仁文明の乱がすぐに想起されるし,新撰組による血の粛清からでもまだ百年と少々しか経っていない。これら有名な殺戮の歴史だけではなく、都であったがゆえの血で血を洗う抗争の類は数えきれないほどあったろう。だが、「京」はそんな殺戮があるたびに、それを一つずつ丁寧に「拭きと」ってきた歴史を持つ街なのであり、さらには現代の「京」にもまたそんなところがあると、掲句は言っている。したがって、この句の「秋の暮」に吹いているのは、荒涼たる無常の風だ。京都市にはいま、およそ1700近くの寺があるそうだが、これら寺院の「殺(あや)めては拭きとる」役割にも大きなものがあったと思われる。それでなくとも物寂しい「秋の暮」に、句から吹き起こる無常の風は、骨の髄まで沁みてくるようだ。怖い句である。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)




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