近鉄の後に進出した吉祥寺三越店が来年五月に閉店する。わずか五年しかもたなかった。




2005ソスN10ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 16102005

 忙しなく秋刀魚食べ了へひとりかな

                           ともたけりつ子

語は「秋刀魚」で秋。句集の内容から推して、作者は若い独身女性のようだ。仕事を持ち、ひとり暮らしをしている。仕事帰りに、初物の「秋刀魚」をもとめてきたのだろう。せっかくの季節の物だから、ちゃんと大根おろしを添え、柚子かレモンの汁を滴らせたにちがいない。だが、いざ食べる段になると、季節感をじっくり味わうというのでもなく、いつものように「忙(せわ)しなく」食べ了(お)えてしまった。もはや習い性となってしまったそんな食べ方に、つくづくと「ひとり」を感じさせられている。私の独身時代を思い起こしてみても、似たようなものだった。とにかく「食べておかなければ」という意識が強く、旬の物であれ何であれ、そそくさと食べる癖がついてしまうのだ。言うならば、ちょっと中腰のままで食べる感じである。「秋刀魚の歌」の佐藤春夫みたいに色模様もないので、「男ありて/今日の夕餉に/ひとりさんまを食ひて/思ひにふけると」なんて情趣は湧いてこない。句に戻れば、だから作者の「ひとりかな」という表現は、寂寥感を押し出して言っているのではなく、一抹の寂しさを伴ってはいるが、その内実は「苦笑」に近いと思う。「ひとり」の自分を客観視して詠んでいるところが、掲句のポイントである。『風の中の私』(2005)所収。(清水哲男)


October 15102005

 底紅や人類老いて傘の下

                           高山れおな

語は「底紅(そこべに)」で秋。「木槿(むくげ)」のこと。なるほど、木槿の花は中央の「底」の部分が「紅」色をしている。句の前書きによれば、若くして世を去った俳人・摂津幸彦七回忌法要の折りの作句だ。「蕭々たる冷雨、満目の木槿」だったという。それでなくとも心の沈む法要の日に、冷たい雨が降りつづき、しかも折りからたくさんの底紅が咲いていた。『和漢三才図絵』に「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」とあるように、昔から底紅(木槿)ははかないものの例えとされてきた。冷雨に底紅。参列した人たちはみな「傘」をさしていたわけだが、作者は自分も含めて、そこにいた人たちを「人類」とまとめている。すなわち人間の命のはかなさの前では、人それぞれの性や顔かたちの違いや個性や思想のそれなどにはほとんど意味が無く、生きて集まってきた人たちは「人類」と一括りに感じられると言うのである。その「人類」が故人の生きた日よりもさらに「老いて」「傘の下」に、いまこうして黙々と立っているのだ。虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ。思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる。『荒東雜詩』(2005)所収。(清水哲男)


October 14102005

 赤い羽根つけ勤め人風情かな

                           清水基吉

語は「赤い羽根」で秋。最近は、つけている人を街であまり見かけなくなった。見かけるのは、ほとんどがテレビに出てくるアナウンサーだとか国会議員だとか、いわば特殊な職業の人ばかりだ。この赤い羽根は、昭和二十二年に「少年の町」のフラナガン神父のすすめで、佐賀と福岡ではじまった民間の社会福祉活動である。以後、赤い羽根という斬新なアイデアの魅力も手伝って、たちまち全国展開されるようになった。ひところは季節の風物詩と言っても過言ではないくらいに普及し、街頭募金も大いに盛り上がったものである。掲句は、そのころの作句だろう。みんなと同じように募金して羽根をつけてはみたものの、考えてみれば自分はしがないサラリーマンでしかない。そんな「勤め人風情」が事もあろうに人助けとは、なんだかおこがましいような気がする。いいのかな、こんなことをして……。と、自嘲の心が消せないのである。私も若いころから、民間の福祉活動については(その善意を否定するのではないが)、疑問を持ってきた。本来は国家の福祉制度が充実していればすむ部分をも、民間に任せてネグレクトしているのが許せないからだ。したがって、国会議員が赤い羽根をつけるなどは笑止の沙汰で、自分たちの福祉政策の脆弱さ加減をみずから認めているようなものなのである。彼らにはおよそデリカシーというものが無いらしく、その欠如がいまやこれまで積み上げてきたささやかな公的福祉すらをも切り捨てにかかってきた。それこそ福祉の民営化だ。「勤め人風情」が羽根をつけなくなったのも、当然だろう。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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