阪神電鉄の経営体質は古色蒼然という評判。ファンの声を聞こうとしているが無謀だね。




2005ソスN10ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 14102005

 赤い羽根つけ勤め人風情かな

                           清水基吉

語は「赤い羽根」で秋。最近は、つけている人を街であまり見かけなくなった。見かけるのは、ほとんどがテレビに出てくるアナウンサーだとか国会議員だとか、いわば特殊な職業の人ばかりだ。この赤い羽根は、昭和二十二年に「少年の町」のフラナガン神父のすすめで、佐賀と福岡ではじまった民間の社会福祉活動である。以後、赤い羽根という斬新なアイデアの魅力も手伝って、たちまち全国展開されるようになった。ひところは季節の風物詩と言っても過言ではないくらいに普及し、街頭募金も大いに盛り上がったものである。掲句は、そのころの作句だろう。みんなと同じように募金して羽根をつけてはみたものの、考えてみれば自分はしがないサラリーマンでしかない。そんな「勤め人風情」が事もあろうに人助けとは、なんだかおこがましいような気がする。いいのかな、こんなことをして……。と、自嘲の心が消せないのである。私も若いころから、民間の福祉活動については(その善意を否定するのではないが)、疑問を持ってきた。本来は国家の福祉制度が充実していればすむ部分をも、民間に任せてネグレクトしているのが許せないからだ。したがって、国会議員が赤い羽根をつけるなどは笑止の沙汰で、自分たちの福祉政策の脆弱さ加減をみずから認めているようなものなのである。彼らにはおよそデリカシーというものが無いらしく、その欠如がいまやこれまで積み上げてきたささやかな公的福祉すらをも切り捨てにかかってきた。それこそ福祉の民営化だ。「勤め人風情」が羽根をつけなくなったのも、当然だろう。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 13102005

 冴えざえとルイ・アラゴンのことなどを

                           小川和彦

の季語に「冴ゆ」があって、寒さの極まった感じを言う。掲句の「冴えざえ」を季語と見て便宜的に「冴ゆ」に分類はしておくが、この場合の「冴えざえ」は体感というよりも心の鮮やかな状態を表している。となれば、むしろ晩秋くらいの季節感と解釈するほうがよいのかもしれない。それにしても、ルイ・アラゴンとは懐かしい名前だ。第二次大戦のナチスによる被占領下フランスで、伝統的な詩型を駆使してレジスタンス作品を書いた。左翼文学の雄として世界的に名が知られ、私が学生の頃には日本でも人気の高かった詩人である。作者がどういうきっかけで「アラゴンのことなどを」冴えざえと思い出したのかはわからないが、現今のキナ臭い世界情勢のなかで、ふっとかつての左翼詩人に思いがゆくことは不自然ではないだろう。アラゴンの優れた詩は、声高に抵抗を叫ぶのではなく、むしろみずからの傷心に身を沈めつつ、そこから世の中の理不尽を静かに告発するというものであった。短い詩「C(セー)」を安藤元雄の訳で紹介しておく。「C」は、「セーの橋」という町の名前から来ている。戦略上の要衝にあるため、古くからたびたび戦場となった町だ。とくにドイツ占領軍撤退の際の激戦地として知られる。「僕は渡った セーの橋を/すべてはそこに始まった//過ぎた昔の歌にある/傷ついた騎士のこと//夏に咲いた薔薇のこと/紐のほどけたコルサージュのこと//気のふれた公爵の城のこと/お堀に群れる白鳥のこと//永遠に待つ花嫁が/踊りにくるという野原のこと」。句は俳誌「梟」(2005年10月号)所載。(清水哲男)


October 12102005

 萩咲て家賃五円の家に住む

                           正岡子規

語は「萩」で秋。前書きに「我境涯は」とある。すなわち、「自分の境涯は、まあこんなところだろう」と、もはや多くを望まない心境を述べている。亡くなる五年前の句だ。一種の諦観に通じているのだが、何となく可笑しい。もちろん、この可笑しさは「家賃五円」というリアリスティックな数字が、とつぜん出てくることによる。「萩咲て(はぎさいて)」と優雅に詠み出して、生活に必要な金銭のことが具体的に出てくる変な面白さ。坪内稔典の近著『柿喰ふ子規の俳句作法』(2005・岩波書店)を読んでいたら、「子規俳句の笑いの基本形は、見方や感じ方のずらしが伴う」と書いてあり、私もその通りだと思った。それも企んだ「ずらし」ではなくて、自然にずれてしまうところが面白い。同書にも書かれているが、子規の金銭感覚はずっと若いときに比べると,この頃は大いに様子が違っている。漱石の下宿に転がり込んでいたころには、「人の金はオレの金」みたいにルーズだったのが、晩年には逆に合理的な考え方をするようになった。掲句の「五円」は切実な数字だったわけで、だからこそ句に書いたのだが、しかし境涯をいわば経費で表現するのは並みの感覚ではないだろう。そう言えば、みずからの墓碑銘(案)の最後に「月給四十円」と記したのも子規であった。稔典さんによれば「その月給で一家を支えている子規のひそかな誇りが示されている」ということであり、これまたその通りであろうとは思うのだけれど……。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)




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