バキスタン大地震。日が経つにつれて死者の数が増大。天までが弱者を切り捨てるのか。




2005ソスN10ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 12102005

 萩咲て家賃五円の家に住む

                           正岡子規

語は「萩」で秋。前書きに「我境涯は」とある。すなわち、「自分の境涯は、まあこんなところだろう」と、もはや多くを望まない心境を述べている。亡くなる五年前の句だ。一種の諦観に通じているのだが、何となく可笑しい。もちろん、この可笑しさは「家賃五円」というリアリスティックな数字が、とつぜん出てくることによる。「萩咲て(はぎさいて)」と優雅に詠み出して、生活に必要な金銭のことが具体的に出てくる変な面白さ。坪内稔典の近著『柿喰ふ子規の俳句作法』(2005・岩波書店)を読んでいたら、「子規俳句の笑いの基本形は、見方や感じ方のずらしが伴う」と書いてあり、私もその通りだと思った。それも企んだ「ずらし」ではなくて、自然にずれてしまうところが面白い。同書にも書かれているが、子規の金銭感覚はずっと若いときに比べると,この頃は大いに様子が違っている。漱石の下宿に転がり込んでいたころには、「人の金はオレの金」みたいにルーズだったのが、晩年には逆に合理的な考え方をするようになった。掲句の「五円」は切実な数字だったわけで、だからこそ句に書いたのだが、しかし境涯をいわば経費で表現するのは並みの感覚ではないだろう。そう言えば、みずからの墓碑銘(案)の最後に「月給四十円」と記したのも子規であった。稔典さんによれば「その月給で一家を支えている子規のひそかな誇りが示されている」ということであり、これまたその通りであろうとは思うのだけれど……。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


October 11102005

 天高しやがて電柱目に入り来

                           波多野爽波

語は「天高し」で秋。澄み渡った秋の大空。作者は大いに気を良くして、天を仰いでいる。だが、だんだん視線を下ろしていくにつれ何本かの「電柱」が目に入ってきた。せっかくの青空になんという無粋で邪魔っけな電柱なんだ、興ざめな。……という解釈も成り立たないことはないけれど、作者の本意とは相当に隔たりがあるように思う。そうではなくて、実ははじめから作者の視野には電柱が入っていたと解釈したい。人間の目は、カメラのレンズのようには機能しない。視野に入っているものでも、見たいものが別にあればそちらにピントを合わせて見ることができる。言い換えれば、余計な他のものには意識がいかないので、視野の内にあっても見ないでいられる。それが証拠に、何か気に入ったものを写真に撮ってみると、思わぬ夾雑物がいっしょに写っていたりして慌てることがある。えっ、こんなものがあそこにあったっけなどと、後で首を傾げることは多い。作者の最初の関心は高い天であったから、はじめは電柱に気がつかなかっただけなのだ。それがしばらく仰ぎ見ているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきて、視野の内にある他のものも見えてきはじめた。そんな人間の目の特性を発見して、作者は面白がっているのだろう。如何でしょうか。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


October 10102005

 うつうつと一個のれもん妊れり

                           三橋鷹女

語は「れもん(檸檬)」で秋。妊(みごも)ったときの心境には、妊ったことのない者には絶対にわからない複雑なものが入り交じっているだろう。周囲から祝福の言葉をかけられても、それは当人の気持ちのほんの一部に照応するのみなのであって、そう簡単に心身の整理がつくものではあるまい。だからこその「うつうつと」であり、幸福そうな明るい色彩の「一個のれもん」にすら、むしろ鬱陶しさを感じてしまう。とまあ、私は男だから、このあたりまでしか句への思いがいたらない。ただ、この「れもん」は「りんご」や「みかん」と置き換えることができそうでいて、しかし代替は不可能だということはよくわかる。「れもん」には、どことなく韻文的な神秘性が秘められている感じがあるからだ。「りんご」は散文的にわかってしまうが、「れもん」にはそうしたわかりやすさがないのである。それはたとえば梶井基次郎が『檸檬』で書いたように、だ。京都の丸善で、開いて積み上げた画集の上に、「うつうつと」した梶井が「檸檬」を時限爆弾のように仕掛けて立ち去る。この有名な場面も、檸檬でなくては話にならないだろう。ところで、この京都の丸善が本日をもって閉店するという。もっとも、梶井の短編に出てくる店は現在の河原町通りとは場所が違うけれど、とまれ明治五年(1872年)創業の老舗が消えてゆくのは、やはり時世というべきなのか。京都も、また少し寂しくなるな。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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