とりあえずコンタクトを注文するも製造中止。薬事法でまた医者の診断が必要だと。怒。




2005ソスN9ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2892005

 殊に濃き天誅村の葉鶏頭

                           塩路隆子

語は「葉鶏頭(はげいとう)」で秋。雁が飛来する頃に葉が色づくので、「雁来紅(がんらいこう)」とも。「かまつか」の別名もある。句の「天誅(てんちゅう)村」とは、おそらく幕末の尊王攘夷激派であった天誅組終焉の地の奈良県は東吉野村のことだろう。明治維新の五年前、大和に兵を挙げた若き浪士の集団・天誅組は、思いもよらぬ京都での政変のあおりをくらう形で朝敵視され、志を果たせぬままに討ち果たされた。純粋が老獪に破れた格好だ。非情なことを言えば、逆の立場の新撰組がそうであったように、彼らもまた新しい日本をつくるための捨て石であった。現在、東吉野の里には終焉の地の碑が建てられており、その悲劇性により全国的にも人気が高いという。そんな若者たちの烈々たる赤心を、作者は葉鶏頭の朱に認めたのだろう。そして「殊(こと)に濃き」色には、流された彼らの血の色も重ねられている。歴史的に有名な事件や出来事のあった土地を旅すると、どうしてもそれらのフィルターを通して、風景や景物を眺めることになる。そこで日常生活を営んでいる人たちはさして意識していないことまでをも、旅行者の目は見つめてしまう。掲句もその典型の一つだ。が、しかしこのようにして歴史は後世へと語り継がれていくのでもあるから、貴重な一句と言えよう。『美しき黴』(2004)所収。(清水哲男)


September 2792005

 黒葡萄包む「山梨日日」に

                           中村与謝男

語は「葡萄(ぶどう)」で秋。作者は関西在住だから、山梨に旅したときの句だろう。山梨は、ご存知のように有数の葡萄の特産地だ。葡萄狩りを楽しんだのだろうか。摘んだ黒葡萄をお土産に持ち帰るのに、「山梨日日(新聞)」で包んだというのである。ただそれだけの句であるが、他の新聞ではなく、わざわざ地元紙を選んで包んだところがミソなのだ。つまり作者は、葡萄だけではなくて,それを包んだ新聞までが土産になるという思いつきを喜んでいる。どうせ包むならそうありたいと、ちょっと私にもそういうところがある。どの地方でも読める全国紙なら、土産をもらった人はすぐに捨ててしまうだろうが、普段は読めない地方紙だと、目を通したくなるのが人情だ。少なくとも、見出しや写真だけにでも注目してくれるだろうと、作者のいわばサービス精神が働いている。特産物を、地元の社会的な雰囲気といっしょに届けるという発想は嬉しい。ちなみに、昨日付「山梨日日」朝刊のヘッドラインから拾っておくと、「秋季関東高校野球、4強出そろう」「10月2日の須玉甲斐源氏祭り、戦国時代の櫓が登場」「甲府一高伝統の『強行遠足』、野辺山目指し健脚競う」等々だ。「強行遠足」の小見出しには「男子の7割、女子9割が完走果たす」とある。こんな記事の載っている新聞で葡萄が包んであったとしたら、私は喜んで読んでしまうだろう。『樂浪』(2005)所収。(清水哲男)


September 2692005

 ゑのころの穂に茜さす志

                           佐々木六戈

語は「ゑのころ」で秋、「狗尾草(えのころぐさ)」に分類。花穂を子犬の尾に見立てて、この名がある。「猫じゃらし」とも言い、こちらのほうが一般的かもしれない。環境に順応する力が強いのだろうか、全国的にどこにでも生えている草だ。そんないわば雑草が、朝日を浴びて茜色に照り映えている状景だろう。そして「茜さす」はもともとが「朝日」や「光」「紫」などにかかる枕詞だから、掲句では「ゑのころの穂」の状景を描写するのと同時に、本来の使い方で下五の「志」にもかけてあるのだと思う。すなわち「茜さす志」とは、「赤心」に通じる嘘いつわりやはったりのない真摯な志の意味と読める。秋の朝のさわやかな大気のなかで、みずからの志のことを思っているわけだが、その志は「ゑのころ」と同じように決して大きくも派手でもない。だがしかし、いくらつつましやかな志だとはいえ志は志なのであるから、容易に成就するはずもなく、作者はいつの日かおのれの「茜さす志」が文字通りに照り映えることがあるだろうかと、日に染まって揺れている「ゑのころ」にしばし眺め入っているのである。この句に触れて、私は若き日の志のことを思い出した。と同時に、現在の自分には志と呼べるようなものが何もないことに愕然ともしたのだった。「句歌詩帖・草藏」(第23号・2005年9月刊)所載。(清水哲男)




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