前原民主代表も改憲論者。彼が自民と握手するとき、日本はキナ臭くなると思うこの頃。




2005ソスN9ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2292005

 足踏みの音の疲れし脱穀機

                           松倉ゆずる

脱穀機
語は「脱穀(だっこく)」で秋、「稲扱き(いねこき)」に分類。現在ではコンバイン一台で稲の刈り入れから脱穀、さらには藁の処理まで行ってしまうが、戦後しばらくまでの水稲農家の秋は大変だった。鎌で刈り取って乾燥させた稲を、今度は脱穀機にかけて稲穂から籾(もみ)を扱きとる作業が待っている。そこで活躍するのが脱穀機だ。私が子供の頃にはまだ足踏み式(図版参照)の脱穀機が多く、ドラムにつけられた金属製の歯の間に稲穂をはさんで下の板を踏むと、ドラムが回転して籾が落ちるという仕掛けであった。相応の力とコツを必要とし、子供にはとても無理だったけれど、当時の農業では唯一の「機械」仕事だったので、物珍しく眺めたことを掲句から思い出した。実際、大正初期に発明されたというこの脱穀機が、日本農業機械化の最初の機械なのである。なんでも自転車のスポークに稲がからまって籾が落ちるのを見ての発明だそうだが、真偽のほどは不明だ。しかしいくら機械だとはいえ、所詮は人力式のかなしさである。だんだんに疲れが出てきて,その「音」にも、句のように疲れがあらわれてくるわけだ。一日に脱穀できる量も知れていたので、さぞや毎日が辛かったろう。だから、この足踏み式に石油発動機を連結した装置をはじめて見たときには、子供ながらに快哉を叫んだものだった。昔から農作業を実地に体験した人の句の少ないなかで、作者のこうした句作は貴重である。俳誌「俳壇」(2005年10月号)所載。(清水哲男)


September 2192005

 口下手の男と秋の風車

                           加藤哲也

句で「風車(かざぐるま)」は春の季題だから、掲句の季語は「秋」である。自画像だろうか。男が風車を手にしているのか、それとも傍らの人の手にあるのか、もっと言えば抽象的心象的な存在なのか。いずれにしても、秋風を受けて風車は軽快に回っているのだ。そして一方、男の口はといえば、軽快さとは裏腹にぼそりぼそりとしか言葉を発しない。したがって、ここで両者は一見対極にあるように思えるけれど、しかし天高き秋空の下に置いてみると、いずれもが季節の爽やかさとはどこかちぐはぐで、場違いな感じがする。お互いに季節から置き去りにされたような寂寥感が、読者の心をちらりとよぎる。そんな味わいを持った句だと思う。ところで、口下手とは一般的にどういう人の属性を指すのだろうか。たしかに世の中には、反対に良く口の立つ人もいる。私の考えでは、これまた対局にあるようでいて、そうでもないと思ってきた。自分の言いたいことを述べるというときに、前者はより慎重なのであり、後者はより状況判断が早いのである。だから話の中味については、どちらが理路整然としているかだとか、説得力があるかだとかは全く関係がない。状況に応じて、それらは口が立とうが下手だろうが入れ替わるものなのだ。よく漫才などでこの入れ替わりが演じられ笑いの対象になるのは、そこにこうしたいわば発語のメカニズムが極端に働くからなのだろう。だから中味的には、能弁で口下手な人もいれば、訥弁で巧みな人もいるという理屈になる。ちょっと議論が大雑把に過ぎたが、この問題はじっくり考えてみるに値すると思う。『舌頭』(2005)所収。(清水哲男)


September 2092005

 ヒチコックの鴉ミレーの落穂かな

                           宮崎晴夫

鳥
語は「落穂(おちぼ)」で秋。稲刈りの後に落ち散った稲の穂。昔は落穂ひろいも農家の重要な仕事だったが、今ではどうなのだろう。句では、収穫後の田圃に人が出て、やはり落穂をひろっているのではあるまいか。周辺には、何羽かの鴉(からす)が飛んだり止まったりしているのが見えている。まことに長閑でおだやかな光景だ。だが、その牧歌的な眺めも、作者のようにふっと何かを連想することで、たちまち不吉な予兆を帯びた情景に変貌してしまう。こうした句では、何を連想するかが句の良し悪しの分かれ目となるが、私にはなかなかにユニークな連想だと思われた。「ヒ(ッ)チコックの鴉」とは、映画『鳥』(1963)に出てくる鴉だ。この映画は、普段は人間に何の害も及ぼさない野生の鴉や雀らが、ある日突然わけも無く人間に襲いかかってくるという動物パニック映画の傑作だ。とくに大きくて真っ黒い鴉たちが、だんだん周辺に数を増やしてくるシーンには非常に不気味なものがあった。作者はその様子をミレーの絵『落穂ひろい』にダブらせて連想し、熱心に落穂をひろう三人の女たちが顔を上げると、もはや周囲は鴉の集団に包囲され、真っ黒になっている図を想像している。一種の白日夢ではあるけれど、鴉の邪悪が農婦の敬虔を脅かす予感は十分にドラマチックだ。ただし、こういう句は一句詠んだら、それでお終いにしたい。バリエーションは可能でも、詠むほどに面白みが減っていくからだ。『路地十三夜』所収。(清水哲男)




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