亡くなられた中内さんの忘れられない言葉。「君の詩の原稿料は一字なんぼくらいや」。




2005ソスN9ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2192005

 口下手の男と秋の風車

                           加藤哲也

句で「風車(かざぐるま)」は春の季題だから、掲句の季語は「秋」である。自画像だろうか。男が風車を手にしているのか、それとも傍らの人の手にあるのか、もっと言えば抽象的心象的な存在なのか。いずれにしても、秋風を受けて風車は軽快に回っているのだ。そして一方、男の口はといえば、軽快さとは裏腹にぼそりぼそりとしか言葉を発しない。したがって、ここで両者は一見対極にあるように思えるけれど、しかし天高き秋空の下に置いてみると、いずれもが季節の爽やかさとはどこかちぐはぐで、場違いな感じがする。お互いに季節から置き去りにされたような寂寥感が、読者の心をちらりとよぎる。そんな味わいを持った句だと思う。ところで、口下手とは一般的にどういう人の属性を指すのだろうか。たしかに世の中には、反対に良く口の立つ人もいる。私の考えでは、これまた対局にあるようでいて、そうでもないと思ってきた。自分の言いたいことを述べるというときに、前者はより慎重なのであり、後者はより状況判断が早いのである。だから話の中味については、どちらが理路整然としているかだとか、説得力があるかだとかは全く関係がない。状況に応じて、それらは口が立とうが下手だろうが入れ替わるものなのだ。よく漫才などでこの入れ替わりが演じられ笑いの対象になるのは、そこにこうしたいわば発語のメカニズムが極端に働くからなのだろう。だから中味的には、能弁で口下手な人もいれば、訥弁で巧みな人もいるという理屈になる。ちょっと議論が大雑把に過ぎたが、この問題はじっくり考えてみるに値すると思う。『舌頭』(2005)所収。(清水哲男)


September 2092005

 ヒチコックの鴉ミレーの落穂かな

                           宮崎晴夫

鳥
語は「落穂(おちぼ)」で秋。稲刈りの後に落ち散った稲の穂。昔は落穂ひろいも農家の重要な仕事だったが、今ではどうなのだろう。句では、収穫後の田圃に人が出て、やはり落穂をひろっているのではあるまいか。周辺には、何羽かの鴉(からす)が飛んだり止まったりしているのが見えている。まことに長閑でおだやかな光景だ。だが、その牧歌的な眺めも、作者のようにふっと何かを連想することで、たちまち不吉な予兆を帯びた情景に変貌してしまう。こうした句では、何を連想するかが句の良し悪しの分かれ目となるが、私にはなかなかにユニークな連想だと思われた。「ヒ(ッ)チコックの鴉」とは、映画『鳥』(1963)に出てくる鴉だ。この映画は、普段は人間に何の害も及ぼさない野生の鴉や雀らが、ある日突然わけも無く人間に襲いかかってくるという動物パニック映画の傑作だ。とくに大きくて真っ黒い鴉たちが、だんだん周辺に数を増やしてくるシーンには非常に不気味なものがあった。作者はその様子をミレーの絵『落穂ひろい』にダブらせて連想し、熱心に落穂をひろう三人の女たちが顔を上げると、もはや周囲は鴉の集団に包囲され、真っ黒になっている図を想像している。一種の白日夢ではあるけれど、鴉の邪悪が農婦の敬虔を脅かす予感は十分にドラマチックだ。ただし、こういう句は一句詠んだら、それでお終いにしたい。バリエーションは可能でも、詠むほどに面白みが減っていくからだ。『路地十三夜』所収。(清水哲男)


September 1992005

 毎日が老人の日の飯こぼす

                           清水基吉

語は「老人の日(敬老の日)」で秋。1951年(昭和二十六年)から始まった「老人の日」が、「敬老の日」として1966年(昭和四十一年)から国民の祝日に制定された。当たり前のことながら、高齢者にとっては「毎日が老人の日」だ。子供や若者とは違って、高齢者は否応無く日々「年齢」を意識して生きる存在である。老人を対象としたホームヘルパーなどが使う用語に「生活後退」があるが、これは高齢者・障害者など生活障害がある人々の衣食住を中心とした「基本的な生活」の局面で現れる生活内容の貧困化、悪化及び自律性の後退である。軽度ながら「飯こぼす」もその一つで、こうした身体機能の低下は極めて具体的であるがゆえに、その都度「年齢」を意識せざるを得ないわけだ。したがって当人には毎日が老人の日なのであり、その毎日のなかの年に一日だけを取り出して仰々しい日にするなんぞは、全体どういう了見からなのか。こっちは日常的に老いを意識して生きざるを得ないのに、重ねて国が追い打ちをかけることもあるまいに……。と、作者は鼻じろむと同時に、その一方で「飯こぼす」自分の情けなさに憮然としてもいるのだ。ああ、トシは取りたくねえ。私事だが、最近よく小さい物を落とすようになった。ビンの蓋だとかメモ用の鉛筆だとか。若い頃にはむろん何とも思わなかったけれど、いまでは落とすたびにショックを受ける。生活後退の兆しだろうな、と。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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