さあ、阪神中日の激突三連戦である。どちらかが三連勝するとほぼ決まりかな。楽しみ。




2005ソスN8ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 3082005

 秋澄むやステップ高き検診車

                           吉村玲子

検診車
語は「秋澄む」。秋の大気が澄み切った様子を言う。最近は検診車に乗ったことがないが、昔はたしかに一般のバスに比べて。少し「ステップ」が高かったような記憶がある(写真参照、1960年代に北海道で使われていた車両だそうです)。自動車のメカの知識は皆無だけれど、いろいろな精密機器を積む関係で、エンジンの種類や設置する場所などが制限され,どうしても車体を高くする必要があったのではなかろうか。会社をやめてから何度か、居住する自治体の検診車でレントゲン撮影などを受けた。検診を受ける気持ちには微妙なものがあって、若い間は健康に自信があったので気楽に積極的に受診できたのだが、五十代に入るころからいささか躊躇するといおうか、できれば避けたいような気持ちが強くなっていった。結果の通知をおそるおそる開くときの、あの、いやアな感じ……。まあ、そんな自分のことはともかく、このときの掲句の作者はすこぶる元気だったのだろう。元気でないと,いくら大気が澄んでいようとも、気持ちよく「秋澄む」と詠み出す気にはなれないはずだからだ。だからステップの高さまでが、むしろ心地よいのである。「よっこらしょ」としんどそうに乗るのではなく、高さに戸惑ったのは一瞬で、すぐに軽やかに乗り込んだのだと思う。「秋澄む」の爽やかな雰囲気を自然の景物ではなく、ちょっと意外な「検診車」を使って出したところがユニークで面白い。『冬の城』(2005)所収。(清水哲男)


August 2982005

 石段に初恋はまだ赤のまま

                           つぶやく堂やんま

語は「赤のまま」で秋、粒状の紅色の花を赤飯(赤の「飯」)になぞらえた命名だ。「犬蓼(いぬたで)」に分類。今年も「石段」の周辺に、「赤のまま」が咲く季節になった。神社か寺院かに通じている道だろう。昔ながらに風に揺れている「赤のまま」を見ていると,往時の初恋の思い出が懐かしくも鮮明によみがえってくる。その鮮明さを表現するのに、「赤のまま」の「まま」を「飯」ではなく、「儘」と洒落たわけだ。恋ゆえに、赤い記憶が冴えてくる。初恋の相手が当時の「まま」に、いまにも石段を下りてきそうではないか。むろん相手のこともそうだけれど、純情だったころの自分のことをもまた、作者はいとおしく思い出しているのである。言葉遊びが仕掛けられているが,無理の無い運びが素敵だ。私の「赤のまま」の記憶は,次の歌に込められている。「♪小鳥さえずる森陰過ぎて、丘にのぼれば見える海、晴れた潮路にけむり一筋、今日もゆくゆくアメリカ通いの白い船」。中学一年のときの学芸会で,憧れの最上級生がうたった歌だ。おそらくそのころの流行歌だろうと思われるが、タイトルは知らない。だが、半世紀以上経ったいまでもこのように歌詞を覚えているし,節をつけてちゃんと最後まで歌える。丘にのぼったって海など見えっこない山奥の村には、どこまでも「赤のまま」の道がつづいているばかりなのであった。『つぶやっ句 龍釣りに』(2005・私家版)所収。(清水哲男)


August 2882005

 大瀑布ひとすじ秋の声を添ふ

                           篠田悌二郎

語は「秋の声」。ものの音、ものの気配に秋をききつけるのである。心で感じとる秋の声だ。「瀑布(ばくふ)」は滝のことだが、作者は大きな滝の落ちる「音」に「秋の声」を聞き取ったのではあるまい。日は中天にあって,なお真夏のように暑いのだけれど、滝に見入っているとどことなく秋の気配が感じられたということだろう。「ひとすじ」とあるが、これもまた具体的な滝の一部を指しているのではなく、「秋の声」のかすかな様子を表現している。「ひとすじ」「添ふ」の措辞が、非常に美しい。ところで歳時記をめくると、この「秋の声」は「天文」の部に分類されている。私などはむしろ「時候」の部に入れたほうがよいのではと思うのだが,なぜ「天文」なのだろうか。こうした分類法が合理的でないと言ったのは,俳句もよくした寺田寅彦であった。「今日の天文學(アストロノミー)は天體、即、星の學問であつて氣象學(メテオロヂー)とは全然其分野を異にして居るにも拘らず、相當な教養ある人でさへ天文臺と氣象臺との區別の分らないことが屡々ある。此れは俳諧に於てのみならず昔から支那日本で所謂天文と稱したものが、昔のギリシャで「メテオロス」と云つたものと同樣『天と地との間に於けるあらゆる現象』といふ意味に相應して居たから、其因習がどうしても拔け切らないせゐであらう」(随筆「俳句と天文」)。すなわち、歳時記の分類法は科学的にはすこぶる曖昧なのだ。最近、歳時記の季節的分類の矛盾(たとえば「西瓜」や「南瓜」を秋季とするような)を修正する動きが出て来たが、もう一歩進めて、こちらの分類法も考えなおしてほしいものだ。せっかくの分類も、分りにくくては話にならない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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