甲子園の決勝戦が終わると、いよいよ秋の気配が濃くなってくる。さらば、夏の光りよ。




2005ソスN8ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2082005

 だけどこの子は空襲で死んだ草

                           小川双々子

季句だが、夏を思わせる。「空襲」ののちの敗戦は、折りしも「草」生い茂る夏のことだったからだろう。掲句を含む連作「囁囁記」のエピグラフには、旧約聖書「イザヤ書」の次の一節が引かれている。イザヤは、キリスト生誕の700年以上前に登場した預言者だ。「人はみな草なり/その麗しさは、すべて野の花の如し/主の息その上に吹けば/草は枯れ、花はしぼむ。/げに人は草なり、/されど……」。すなわち「囁囁記」の諸句は、このイザヤの言の「されど……」を受けたかたちで展開されている。なかでも掲句は,「されど」を「だけど」と現代口語で言い直し,言い直すことで、草である人の現代的運命の悲惨を告発している。「子」は小さい子供というよりも、「神の子」たる人間のことを指しているのではなかろうか。作者の父親は空襲の際、防空壕のなかで窒息死している。その父親がまず,作者にとっての「この子」であると読むのは自然だろう。たとえそうした背景を知らなくても,引用されたイザヤの言葉を頭に入れていれば、「子」が「空襲で死んだ」個々人に及んでいると読めるはずである。ちなみにイザヤ書の「されど……」以下の部分は、こうだ。「我らの神の言葉は永遠に立つ」。キリスト者である作者はこの言を受け入れつつも,しかしなお「だけど」と絞り出すようにして書きつけている。やがては枯れる運命も知らぬげに、いま盛んな夏草の一本一本が,掲句によってまことにいとおしい存在になった。『囁囁記』(1998・1981年の湯川書房版を邑書林が再刊)所収。(清水哲男)


August 1982005

 晩夏の旅家鴨のごとく妻子率て

                           北野民夫

語は「晩夏(ばんか)」で夏。夏の末。暑さはまだ盛りだが,どことなく秋の気配がしのび寄りはじめる。見上げると,空には入道雲にかわってうろこ雲がたなびいている。作者の名前をはじめて知ったのは,大学生のときだった。細々と投稿をつづけていた「萬緑」(中村草田男主宰)には、現在の主宰である成田千空をはじめ、香西照雄、平井さち子、花田春兆、磯貝碧蹄館などの錚々たる同人が並んでおり,北野民夫もその一人であった。しかも、この人の名は雑誌の奥付にもあった。つまり作者は,「萬緑」の発行元「みすず書房」社主でもあったわけだ。したがって業務多忙ということもあったろうが、社員をさしおいて社長が先に夏休みをとるわけにもいかず、やっと休暇がとれたころは既に晩夏だったというわけだ。子供らにせがまれたのだろう。人並みに行楽地に家族旅行と洒落込んではみたものの、もう人出のピークはとっくに過ぎていて,かなり閑散としている。人出が盛んなら当たり前に見える家族連れが、やけに目立つように感じられてならない。「妻子率て」歩いているうちに,なんだか自分たち一家がひょこひょこと連れ立つ「家鴨」の集団のように思えてきて,苦笑いしている。「率て」は「ひきいて」だろうが、字余りを嫌うのなら「いて」の読みも可能だ。が、音読の際に意味不明になるのが悩ましいところ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 1882005

 八月や後戻りして止まる電車

                           吉田香津代

のJR福知山線の大事故以来,電車の停車駅でのオーバーランが俄にクローズアップされてきた。どこの管内ではオーバーランが一日に何度あったか、などと新聞に載る。運転者にすればオーバーランは仕事の失敗であり,それが給与の減額などに反映されるとなれば、失敗を挽回すべく無理をすることになり、結果としてもっと大きな失敗を犯すことにもつながっていく。私も事故はご免だけれど,しかしながら、オーバーランにあまりにも神経質になってカリカリするような世間もご免だ。効率一本槍の余裕の無さは,私たちの内面までをも浸食し、味気ない生活を再生産することに資するだけではないのか。掲句の作者は,カリカリしているだろうか、苛立っているだろうか。私には,逆に思われる。「八月や」の「や」は「八月なのだから、暑い季節なのだし」と、運転者を少しも責めてはいない。もっと言えば運転者にも意識は及んでいなくて、むしろ「電車」そのものを生き物のように捉えている。暑いからつい間違って行き過ぎることだってあるし、行き過ぎたらゆっくり「後戻り」すれば、それでよろしい。なにしろ、いまは八月なんだからね。と、ゆったりと構えて微笑しているのだと思う。掲句に触れて,私は高校時代に乗っていた東京の青梅線を思い出した。ちょっとしたオーバーランなどは、しょっちゅうだった。で、その都度,後戻りだ。後戻りした電車から降りるときに見ると,見事に所定の位置に止まっていた。それを見て,はじめて意識は運転者に向かい,バックしてきちんと止められるなんぞは凄いなと感心したりしてた思い出。『白夜』(2005)所収。(清水哲男)




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