新潮社テレホンサービスで、天野忠「米」を読みました。よろしければ03-3269-4700で。




2005ソスN8ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1782005

 よく噛んで食べよと母は遠かなかな

                           和田伊久子

語は「かなかな」で秋、「蜩(ひぐらし)」に分類。どういうわけか我が家の近隣では,ここ十数年ほど、まったく鳴いてくれなかった。それがまたどういうわけか、十日ほど前から突然にまた鳴きはじめたのである。数は少なくて,一匹か二匹かと言うほどに淋しいが,とにかく「かなかな」は「かなかな」である。素朴に嬉しい。そして、なんと昨日は朝の起き抜けにも鳴いた。まだ明けきらぬ四時半くらいだったか、一瞬空耳かと疑い,窓を大きく開けてたしかめたら、たった一匹だったけれど、やはり「かなかな」であった。早朝の鳴き声は,田舎にいた少年時代以来だろう。夕刻の声は寂寥を感じさせるが,早暁のそれは清涼感のほうが強くて寂しさはないように思われる。やはり一日のはじまりということから、自然に気持ちが前に向いているためなのだろうか。懐かしく耳を澄ましながら、しばししらじらと明けそめる空を眺めていた。伴うのが寂寥感であれ清涼感であれ,「かなかな」の声は郷愁につながっていく。「子供にも郷愁がある」と言ったのは辻征夫だったが、ましてや掲句の作者のような大人にとっては,「かなかな」に遠い子供時代への郷愁を誘われるのは自然のことだ。遠い「かなかな」,遠い「母」……。もはや子供には戻れぬ身に、母の極めて散文的な「よく噛んで食べよ」の忠告も,いまは泣けとごとくに沁み入ってくるのだ。私たち日本人の抒情する心の一典型を、ここに見る思いがする。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 1682005

 秋かぜやことし生れの子にも吹く

                           小西来山

西の「来山を読む会」編『来山百句』(和泉書院)を送っていただいた。小西来山は西鶴や芭蕉よりも若年だが,ほぼ同時代を生きた大阪の俳人だ。「酒を愛し,人形を愛し,そして何よりも俳句を愛した」と、帯文にある。掲句は一見どうということもない句に見えるが,それは私たちがやむを得ないことながら、現代という時代のフィルターを通して読んでしまうからである。前書きに、こうある。「立秋/天地平等 人寿長短」。すなわち来山は,自分のような大人にも「ことし生れの子」にも、平等に涼しい秋風が吹いている情景を詠み,しかし天地の平等もここらまでで、人間の寿命の長短には及ばない哀しさを言外に匂わせているわけだ。このときに「ことし生れの子」とは、薄命に最も近い人間の象徴である。一茶の例を持ち出すまでもなく,近代以前の乳幼児の死亡率は現代からすれば異常に高かった。したがって往時の庶民には「ことし生れの子」は微笑の対象でもあったけれど、それ以前に大いなる不安の対象でもあったのだった。現に来山自身,長男を一歳で亡くしている。この句を読んだとき,私は現代俳人である飯田龍太の「どの子にも涼しく風の吹く日かな」を思い出していた。龍太も学齢以前の次女に死なれている。「どの子にも」の「子」には、当然次女が元気だったころの思いが含まれているであろう。が、句は「天地平等」は言っていても「人寿長短」は言っていない。「どの子にも」という現在の天地平等が、これから長く生きていくであろう「子」らの未来に及ばない哀しさを言っているのだ。類句に見えるかもしれないが,発想は大きく異なっている。俳句もまた、世に連れるのである。(清水哲男)


August 1582005

 終戦日父の日記にわが名あり

                           比田誠子

語は「終戦(記念)日」で秋。あの日から,もう六十年が経過した。そのときの作者は四歳で、父親はまだ三十代の壮年であった。当然,作者に八月十五日の具体的な記憶はないだろう。父親の日記を通して,その日の様子を知るのみである。どのように「わが名」が書かれているのか。読者にはわからないが、大日本帝国が敗北するという信じられない現実を前に茫然としつつも,しかし真っ先に小さい我が子や家族のことを思った彼の心情は、ひとり彼のみならず、多くの父親に共通するそれだったに違いない。これで、とにかく生き延びられるのだ。ほっとすると同時に,前途への不安は覆い隠しようも無い。戦時中から食糧難は悪化の一途をたどっていたので、明日はおろか今日の食事をどうやって切り抜けたらよいのかすらも、思案のうちなのであった。戦争が終わっても,気休めになる材料は何一つなかったのである。そんななかで、日記に我が子の名を記すときの父親の思いは,たとえ備忘録程度の記述ではあっても,胸が張り裂けんばかりであったろう。そしてその父の思いを,何十年かの歳月を隔てて,作者である娘が知ることになる。すなわち、敗戦の日のことがこうして再び生々しく蘇ってきたというわけだ。もう一句、「我が子の名わからぬ父へつくしんぼ」。苦労するためにだけ生まれてきたような世代への、作者精一杯の鎮魂の句と読んだ。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます