敗戦を知る人はみな還暦を過ぎた。当たり前の話だが、そのことを私は口惜しいと思う。




2005ソスN8ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1582005

 終戦日父の日記にわが名あり

                           比田誠子

語は「終戦(記念)日」で秋。あの日から,もう六十年が経過した。そのときの作者は四歳で、父親はまだ三十代の壮年であった。当然,作者に八月十五日の具体的な記憶はないだろう。父親の日記を通して,その日の様子を知るのみである。どのように「わが名」が書かれているのか。読者にはわからないが、大日本帝国が敗北するという信じられない現実を前に茫然としつつも,しかし真っ先に小さい我が子や家族のことを思った彼の心情は、ひとり彼のみならず、多くの父親に共通するそれだったに違いない。これで、とにかく生き延びられるのだ。ほっとすると同時に,前途への不安は覆い隠しようも無い。戦時中から食糧難は悪化の一途をたどっていたので、明日はおろか今日の食事をどうやって切り抜けたらよいのかすらも、思案のうちなのであった。戦争が終わっても,気休めになる材料は何一つなかったのである。そんななかで、日記に我が子の名を記すときの父親の思いは,たとえ備忘録程度の記述ではあっても,胸が張り裂けんばかりであったろう。そしてその父の思いを,何十年かの歳月を隔てて,作者である娘が知ることになる。すなわち、敗戦の日のことがこうして再び生々しく蘇ってきたというわけだ。もう一句、「我が子の名わからぬ父へつくしんぼ」。苦労するためにだけ生まれてきたような世代への、作者精一杯の鎮魂の句と読んだ。『朱房』(2004)所収。(清水哲男)


August 1482005

 ケチャップの残りを絞る蝉の声

                           桑原三郎

こにも書かれてはいないけれど、晩夏を詠んだ句だと思う。「残り」「絞る」という語句に,過ぎ行く時、消え去るものが暗示されているように読めるからだ。半透明のプラスチック容器から、残り少なくなったケチャップを絞り出すのは,なかなかに厄介である。ポンポンと底を叩いてみたり,容器を端っこからていねいに絞り上げてみたりと、いろいろ試みても,なかなかすんなりとは出て来てくれない。かといって、まだかなり残っているのに捨てるのも惜しいし,けっこう苦労を強いられてしまう。暑さも暑し,そんなふうにして時おりぽとっと落ちてくるケチャップの色はちっとも涼しげではないし,表からは今生の鳴き納めとばかりに絞り出されているような「蝉の声」が聞こえてくるし……。日常的にありふれた食卓の情景とありふれた蝉の鳴き声とを取り合わせて,極まった夏の雰囲気を的確に伝えた句だと読めた。この洒落っ気や、良し。さて、ここで作者のように、ケチャップを絞り出すのに苦労しているみなさんに朗報が(笑)。「日本経済新聞」によれば「ハインツ日本株式会社(本社:東京都台東区浅草橋5−20−8、代表取締役社長:松村章司)は、2005年9月1日(木)より、液ダレしないノズルと、逆さに置ける洗練されたデザインのボトルが特長の『トマトケチャップ 逆さボトル』(通称、逆さケチャップ)を日本で初めて発売いたします。ケチャップは、「液ダレしてキャップの口が汚れ、不衛生」、「へなっとしたボトルは食卓やキッチン台に置きにくい」、「残量が少なくなると出しにくい」など、さまざまな問題点がありました。今回発売される『逆さケチャップ』は、このような主婦の悩みを解決する新しい付加価値商品です」と。『不断』(2005)所収。(清水哲男)


August 1382005

 土用波わが立つ崖は進むなり

                           目迫秩父

語は「土用波」で夏。夏の土用のころ,太平洋岸で多く見られる高波のこと。台風シーズンに多い。炎暑のなか、晴れて風もないのに波が押し寄せてくるのは,遠い洋上の台風の影響だ。そんな土用波を、作者は高い「崖」の上に立って見下ろしている。見下ろしているうちに,目の錯覚で,まるで崖が沖のほうへと進んでいるように思えてきた。いや、確かに進んでいるのだ。子供っぽいといえばそれまでだが、進んでいる気持ちには,波涛を越えて巨船を自在にあやつる船長のような誇らしさすら湧いてきている。勇壮なマーチの一つも,聞こえてきそうな句だ。と、この句の良さはわかるのだが、私はこうした状況が苦手だ。「進むなり」と想像しただけで,もういけない。船酔いしたときのように、頭がくらくらしてくる。三半規管と関係がありそうだが、よくわからない。そういえば高校時代に、川に入って魚を釣ったことがあった。当然川の流れを見つめることになり,見つめているうちに身体のバランスを失ってしまって倒れそうになり,ほうほうの体で引き上げたこともあったっけ。目の錯覚だと頭ではわかっていても、身体が理解して反応してくれないのだから情けない。とにかく、自分の足元が動くことには臆病なのだ。そんな具合だから,私は「それでも地球は動く」の地動説よりも、本音では天動説のほうがずっと好きである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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