女性はSUSHIをパクついている。男は所在なげだ。これも「男はつらいよ」の場面かな。




2005ソスN8ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1082005

 羅を着し自意識に疲れけり

                           小島照子

語は「羅(うすもの)」で夏。昔は薄織の絹布の着物を指したが,現在では薄く透けて見える洋服にも言うようだ。「うすものの下もうすもの六本木」(小沢信男)。あまりに暑いので,思い切って「羅」を着て外出した。そうすると普段とは違って,どうしても「自意識」から他人の視線が気になってしまう。どこに行っても,周辺の誰かれから注視されているようで、気の休まるひまがない。すっかり疲れてしまった、と言うのである。さもありなん、共感する女性読者も多いだろう。この「自意識」というやつは被害者意識にも似て、まことに厄介だ。むろん女性に限ったことではないが、とかく過剰になりがちだからである。一歩しりぞいて冷静に考えれば,誰もが自分に注目するなど、そんなはずはあり得ないのだけれど、自意識の魔はそんな客観性を許さない。他人の視線に身を縮めれば縮めるほど,ますます魔物は肥大するばかりなのである。疲れるわけだ。そして更に自意識が厄介なのは,作者の場合は過剰が恥じらいに通じているのだが、逆に過剰が厚顔無恥に通じる人もいる点である。こうした人の場合には,誰もが自分に注目しているはずだと信じ込んでいて,ちょっとでも視線を外そうものなら(比喩的に言っているのですよ)、自分を無視したと怒りだしたりする。いわゆる「ジコチュー」的人種で、政治家だの芸能人に多いタイプだ。ま、それくらいでないと勤まらない商売なのだろうが、あんまりお友だちにはなりたくないね。俳誌「梟」(2005年8月号)所載。(清水哲男)


August 0982005

 まろび寝に氷菓もたらす声にはか

                           堀口星眠

語は「氷菓(ひょうか)」。アイスキャンデーやアイスクリームなど、夏の氷菓子の総称。暑い日の昼下がり,寝ころんでうとうとしていると、家人から「にはか」の声がかかった。アイスキャンデーを買ってきたから,すぐに起きて来なさいと言う。いまでこそ、冷凍庫に保管しておいて後で食べるテもあるけれど、冷蔵庫の無い時代はそうは行かなかった。買ってきたらすぐに食べないと,たちまち溶けてしまう。待った無し、なのである。だから気持ちよげに昼寝をしている人であろうが、無理にでも起こさなければならなかった。しかしこういう場合には,急に起こされた側も悪い気はしないものだ。機嫌良く「おっ」と跳ね起きて,既に少し溶けかけて滴っているバーを手にするのも、真夏ならではの楽しいひとときだったと言える。それにつけても毎夏残念に思うのは,私が子供だったころのような固いアイスキャンデーが無くなってしまったことだ。出来たてはとくにカチンカチンで、少々のことでは歯が立たないほどだった。だからまず、しばらくしゃぶって柔らかくしたものだが、このときに舌にぴたっと氷が吸いついてくる感じも忘れられない。あの固さは多分、原料にミルクを使わなかった(高価で使えなかった)せいだろう。安物だったわけだ。が、私はいまのものより、数倍も美味かったと信じている。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


August 0882005

 夏よもぎ小さくちいさく無職と書く

                           青木貞雄

語は「夏よもぎ(夏蓬)」。春の若葉のころの蓬は可憐な感じがするが、夏になるとその面影もすっかり失せてしまう。獰猛と言いたくなるくらいに,荒々しく生長する。丈はぐんと高くなり、「蓬髪」という言葉があるほどに無秩序に茂りあい、その荒れ錆びた感じは凄まじい。作者はしかるべきところに提出すべく、書類を書いている。その窓辺から、群生する夏蓬が見えているのだろう。書類には職業を記載する欄があるのだが、気恥ずかしくて「無職」と書くのが躊躇され、しかし書かないわけにもいかなくて「小さくちいさく」書いたのだった。放埒に繁茂している「夏よもぎ」と、小さく萎縮している「無職」の文字との取り合わせが,作者の切ない心境をよく写し出している。書類とは不思議なもので、あれには記載してみてはじめて感じられる事どもがある。たとえば自分の年齢にしても,日頃から百も承知の年齢を書類に記入した途端に,なんだか自分の年齢じゃないように思えてくることがある。おそらくそれは、社会が他人と区別するために自分に当てている諸種の物差しを,自分が社会の目で自身に当てさせられることに起因するのだろう。だから年齢の欄に年齢を記入するとは,その数字は社会的にしか意味がないので,自分が自分であることとはさして関係のない行為だと言える。職業があろうとなかろうと、これまた自分が自分であることとは無関係だ。それが書類を書くことで社会の目を意識させられると、作者のように無職を気恥ずかしく思わされてしまうのである。そういうことではあるまいか。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます