蝉の声,ようやく繁し。うろ覚えの井上陽水「少年時代」なんかが口をついて出てくる。




2005ソスN8ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0282005

 髪濡れて百物語に加はりぬ

                           島 紅子

語は「百物語」で夏。さきごろ(2005年7月22日)亡くなった杉浦日向子に、『百物語』なる好著がある。森鴎外にも同名の短編があるが、これが季語であることは,恥ずかしながらつい最近まで知らなかった。はじめて百物語に出かけた体験を描いた鴎外の文章から引いておくと,「百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭(ろうそく)を百本立てて置いて、一人が一つずつ化物の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである」。したがって、季語としては「肝試しの会」というような意味合いだろう。つづけて鴎外はいかにも医者らしく,「事によったら例のファキイルと云う奴がアルラア・アルラアを唱えて、頭を掉(ふ)っているうちに、覿面(てきめん)に神を見るように、神経に刺戟を加えて行って、一時幻視幻聴を起すに至るのではあるまいか」と述べている。掲句が,いつごろの作かは知らない。が、そう古いものでもなさそうなので、地方によっては現在も、夏の夜の楽しみとして百物語が催されているのかもしれない。「髪濡れて」は洗い髪であるはずはないから、会場に来る途中に夕立にでもあったのだろうか。怪談にはしばしば濡れた髪の女が登場するけれど,不本意でも,他ならぬ自分がそんな格好で怪談の場に加わったことの滑稽を詠んでいる。おどろおどろしい雰囲気で会が進行するなか、隣りの人あたりが濡れた髪に気がついて「ぎゃっ」とでも声を上げたらどうしようか……。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


August 0182005

 麦の穂を描きて白き団扇かな

                           後藤夜半

語は「団扇(うちわ)」で夏。真っ白な地に,すっと一本か二本の「麦の穂」が淡く描いてある。水彩画タッチか、あるいは墨一色の絵かもしれない。いずれにしても、いかにも涼しそうな絵柄の団扇だ。その素朴な絵柄によって,ますます背景の白地が白く見えると言うのである。作者、お気に入りの団扇なのだろう。この句に目が止まったのは,私がいま使っている団扇のあまりに暑苦しい図柄の反動による。街頭で宣伝物として配られていたのをもらってきたのだから、あまり文句も言えないのだが,それにしてもひどすぎる。まずは、色調。パッと見て,目に飛び込んでくる色は、赤色,橙色,黄色だ。これって、みんな暖色って言うんじゃなかったっけ。「うへえっ」と図柄をよく見ると,どうやら夏祭りを描いているらしい。それは結構としても,最上部の太陽からは、幼稚園児の絵のように,太い橙色の光線が地上を照らしている。その地上には祭りの屋台が二軒出ていて、これがなんと「たいやき屋」と「たこやき屋」なのである。普通の感覚なら,氷屋なんかを出しそうなところに,選りに選って汗が吹き出る店が二軒も、左右にぱーんと大きく描かれているのだ。そして、客のつもりなのだろう。店の前には、ムーミンもどきの黄色と緑色の大きなお化け状の人物(?!)が二人……。そして絵のあちこちには、めらめらと燃え上がる真っ赤な炎みたいなものも配されていて,もうここまでやられると、力なく笑ってしまうしかないデザインである。あきれ果ててはいるのだけれど、でも時々,どういうつもりなのかと眺め入ってしまうのだから、宣伝物としては成功しているのかもしれない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 3172005

 力無きあくび連発日の盛り

                           高浜虚子

語は「日の盛り(日盛)」で、もちろん夏。さて、本日で虚子三連発。句のあまりのくだらなさに、当方も「あくび連発」。作者もまた、良い句などとは露思っていなかったろう。思っていないのに、何故こういう句を作って人前に出す気持ちになったのだろうか。駄句として一蹴してしまうのは容易いし、私もそうしかけたのだが、しかし名句よりも駄句のほうに、その人の本質がよく見えるということはあるだろう。掲句に限らず、初心者でも作らないような駄目な句を、虚子はあちこちで平気で詠んでいる。これは、はじめから意図的なのですね。確信犯です。子規亡き後、碧梧桐の「新傾向」でなければ夜も日も明けなかった俳壇のなかにあって、虚子が碧梧桐を批判した有名な文章がある。その一節に、曰く。「尚碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」。このときに、虚子はまだ二十代。碧梧桐の才気を認めないわけではなかったが、それだけでは駄目だと言い放っている。人間、才気だけで生きているわけじゃない。誰にだって、ヌーボーとした側面はあるのだから、そのあたりを捉えることなしにすますようなことでは、何のための表現なのかわからない。掲句は晩年の作だが、若き日の初心を貫いているという意味では、珍重に値する一句と言ってもよいのではなかろうか。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)




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