アメリカがイラクから撤退したがっている。口実さえ見つかれば撤退時期は早いだろう。




2005ソスN7ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2972005

 蝿叩手に持ち我に大志なし

                           高浜虚子

語は「蝿叩(はえたたき)」で夏。いまの子供のほとんどは、もう蝿叩は知らないだろう。1956年(昭和三十一年)七月の句。この当時は、どこの家庭にも蝿叩は必ずあった。「五月蝿い」という言葉があるように、夏場は蝿に悩まされたものだ。そんな必需品が無くなったということは、住環境の衛生状態が良くなったことを示しているのだが、あんなに沢山いた蝿がいなくなるほどに生物界の生態系が崩れてきているとも言えるのではなかろうか。一概に喜んでいてよいものかどうか、素人の私には判断しかねるけれど……。それにしてもまた、虚子には蝿叩の句が多い。呆れるほどだ。ことに晩年に近づいてくるほど数は多く、夏の楽しみは避暑と蝿叩くらいしかなかったのかしらんと思えてしまうくらいである。「大志」もへったくれもあるものか。我は蝿叩を持ちて、日がな一日、憎っくき蝿を追い回すをもって生き甲斐とせむ。ってな、感じである。だから「用ゐねば己れ長物蝿叩」なのであって、常時蝿叩を手にしていた様子が彷佛としてくる。こういうのもある、「蝿叩にはじまり蝿叩に終る」。こうなるともう、蝿叩愛好家、蝿叩マニアの感があり、手にしていないと落ち着けなかったのにちがいない。武士が刀を手元に置いておかないと、なんとなく落ち着かなかったであろう、そんなような虚子にとっての蝿叩なのだった。もう一句、「新しく全き棕櫚の蝿叩」。「棕櫚」は「しゅろ」、嬉しそうだなア。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


July 2872005

 外寝する人に薄刃のごとき月

                           星野石雀

の句の季語は何かと問われたら、疑いもなく「月」と答える人が大半だろう。となれば、季節は秋だ。となれば、寒さが忍び寄ってくるような夜に「外寝する人」とは、いわゆるホームレスの人というイメージになる。そう捉えて解釈してもいっこうに構わないようなものだが、取り合わせがつきすぎていて、句としての深みには欠ける気がする。最初から、底が割れている感じだ。ところが実は、季語は月ではなくて「外寝(そとね)」なのである。夏の夜の蒸されるような家の中を避けて、縁側や庭先など外気のあたるところで寝ることだ。昼寝に対して、夜の仮眠という趣きである。となれば、句の解釈は大いに変わってくる。束の間の仮眠にせよ、作者が見ている外寝の人は、よく眠り込んでしまっているのだろう。折しも空には月がかかっていて、まるで「薄刃(うすば)」のように鋭利で不気味に写る。すなわち、太平楽にも地上でぐっすりと寝ている人に、いわば不吉な影が射している。このときに句全体が象徴しているのは、人がたとえどのような好調時であろうとも、すぐ近くにはたえずその人生を侵犯するような危険な要素が寄り添っているということではなかろうか。「知らぬが仏」ですめばそれに越したことはないけれど、いつかはわずかな無防備の隙を突かれてしまいかねない脆さを、私たちは有しているということだ。この「外寝」も死語になってしまったが、いくら何重かの鍵をかけて室内にこもろうとも、薄刃のごとき月は死ぬことはない。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


July 2772005

 銀座には銀座のセンス夏帽子

                           松本青風

語は「夏帽子」。麦わら帽、登山帽、パナマ帽など、夏用の帽子ならいずれでもよい。まだ帽子をかぶる人の多かったころの銀座の夏。思い思いの夏帽子をかぶった人が、行き交っている。作者自身もかぶっているのだろうが、人々の帽子姿を眺めているうちに、おのずから銀座という街に似合っている帽子とそうでないものとが判然としてきた。すなわち「銀座には銀座のセンス」というものがあるのだ。最新流行と称されるものや高価そうなものが、必ずしもこの街に似合うとは言えない。現在にも増して、昔の銀座は保守的な街だったから、そこでのセンスを身につけるためには、やはりそれなりの年期が必要だったろう。私の観察してきたところでも、銀座には発売中のファッション雑誌から抜け出てきたようないでたちの人は、まず登場してこない。そういう人たちは最初に新宿や澁谷などに出現し、彼らのファッションが相当にこなれてきた段階で、ようやく銀座にもぽつりぽつりと姿を現しはじめるのだ。むろん例外はいくらでもあるけれど、大筋はそういうところに収まってきている。そして銀座に限ったことではなく、どこの街にもそれぞれに固有のセンスがあるのは面白い。たとえば心斎橋には心斎橋の、博多に博多のセンスがあって、旅行者として街を歩いているとよくわかる。と同時に、旅先の街のセンスには、自分が他所者でしかないことを思い知らされるのでもある。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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