看板の写真や絵は俳句的視野狭窄防止のおまじない。俳句の窓から俳句を見たらアカン。




2005ソスN7ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2272005

 極東の小帝国の豆御飯

                           上野遊馬

語は「豆御飯(豆飯)」で夏。グリーンピース入りが、いちばん美味いかな。と思ったところで、掲句の仕掛けがするするっと解けた(ような気がする)。「極東の小帝国」とは、むろん他ならぬ私たちの暮らす日本国のことだ。大日本帝国が破綻して、今年で六十年。理想的な民主主義的平和国家建設を目指していたはずが、気がつけばご覧の通りのていたらく。イラクに自衛隊を派遣常駐させ、国連安保理常任理事国入りへ血道をあげている姿は、その姑息なやり口に照らして、帝国は帝国でも未だ「小」の範疇でしかないのだろう。憲法を改定せよとの動きも、また然り。このときに「極東」という方位は欧米からの位置づけだから、この小帝国という評価も単に作者一個人の判断を越えて、国際的な視野からのそれであることを暗示している。そんな広い視野から現今の日本をつらつら眺めてみると、もはや平和国家は骨抜き寸前であり、実質的な「ピース」はわずかに豆御飯のなかくらいにしかないのではないかとすら思われてくる。厳密に言えば、平和の"peace"とグリーンピースの"peas"とは綴りが違うけれども、日本語の表記は同一だ。さらに"peace like peas"と取れば、いっそう皮肉がきつくなる。以上、……とは書いてみたものの、作句意図とはまったく違っているかもしれぬという不安は残る。間違ってしまったとすれば、敗戦後六十年にこだわるあまりの昨今の私の心情のせいにちがいない。他の解釈があれば、ヒントなりともご教示を願いたい。俳誌「翔臨」(2005年7月・第53号)所載。(清水哲男)


July 2172005

 親ひとり子ひとり林間学校へ

                           山県輝夫

語は「林間学校」で夏。最近では「サマースクール」と言っているようだ。夏休みの数日間をを利用して、都会の子供たちが高原や海岸など自然豊かな土地で過ごす。勉強もするが、登山やハイキング、あるいは風呂を沸かしたり食事を作るなど、どちらかといえば規則正しい生活と健康増進がねらいの「学校」だ。明治期に外国の影響ではじめられたのだが、当時は身体虚弱な子供のための転地療養的な意味合いが濃かったという。さて、掲句の「子」は、はじめて親元を離れるのだろう。「親ひとり」の「親」は作者のはずだから、父親である。子供のほうは無邪気に喜々としているのだけれど、送り出す父親としてはいささかの不安がつきまとう。現地でのことにさして心配はないとしても、タオルや歯ブラシからはじまって着替えなど必要なものの準備は整っているのか、万一熱でも出した場合の薬類は持たせるべきなのか、等々の不安だ。すなわち、母親だったら簡単に常識的に片付けられるもろもろの準備が、男親ゆえに気がつかないところがあるのではないのかと、子の出発ぎりぎりまで心配なのである。参加者に配られたパンフレットを、子供が寝た後で何度もチェックしている作者の姿が目に浮かぶ。こんなに読者をも巻き込んで、はらはらさせる句も、そうめったにあるものではない。『俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 2072005

 すれ違つてから金魚賣は呼ぶ

                           加倉井秋を

語は「金魚賣(金魚売)」で夏。かつては夏の風物詩だったが、最近ではとんと見かけなくなった。町を流して歩く金魚売りは、もう絶滅してしまったのかもしれない。句の作者は、おそらく自宅の近所を歩いているのだ。歩いていると、向うから車を引いてやってくる金魚売りが見えた。一瞬作者は「買って帰ろうかな」と思ったにちがいない。ところが近づいてきた金魚売りは、声をかけるでもなく「すれ違」い、通り過ぎたかと思ったら急に呼び声を出しはじめた。ただこれだけのことを作者が句にしたのは、最初は腑に落ちなかった金魚売りの態度が、後で十分に納得できたからだろう。つまり、金魚売りとはそういうもの、そういう商売なのであると……。要するに、彼の目指す客は道を歩いている人ではなく、常に彼の呼び声が届く範囲の家の中にいる人たちなのである。道行く人の袖を引いてみたところで、よほどの偶然に恵まれなければ、売れるはずもない。道行く人は仕事の最中だったり、遠くから来ている人だったりするからだ。したがって、すれ違う人はまず商売にはならない。ならない人に声をかけても仕方がないし、にもかかわらず面と向かって呼びかける格好になるのも失礼だしと、そんな配慮から作者とも黙ってすれ違ったというわけだ。最近車でやってくる物売りは、みなテープに売り声を仕込んでいるので、すれ違おうがおかまい無しにがなり立てつづけている。あれでは、とうてい風物詩にはなり得ない。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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