東京の朝顔市ほおずき市が終り17日は祇園山鉾巡行、次は大阪の天満祭と時は過ぎゆく。




2005ソスN7ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1272005

 月下美人しぼむ明日より何待たむ

                           小島照子

語は「月下美人」で夏。その豪華な姿から「女王花」とも言われる。夜暗くなってから咲きはじめ、朝になるまでにしぼんでしまうところが、なんとも悩ましい。育ててもなかなか咲いてくれないようで、私なども一度だけしか見たことがない。そんな具合だから、いざ今夜には咲きそうだとなると大変だ。友人知己や近所の人に声をかけるなどして、ちょっとした祝祭騒ぎとなる。「月下美人呼ぶ人来ねば周章す」(中村汀女)なんてことにもなったりする。で、そんなにも楽しみに待っていた花も、あっけなくしぼんでしまった。しぼんだ花を見ながら、作者は「明日より何待たむ」と意気消沈している。大袈裟な、などと言うなかれ。それほどまでに作者は開花を楽しみにしていたのだし、これに勝る楽しみがそう簡単に見つかるとは思えない……。作者の日常については知る由もないけれど、高齢の方であれば、なおさらにこうした思いは強くわいてくるだろう。私にもだんだんわかってきたことだが、高齢者が日々の楽しみを見つけていくのは、なかなかに難しいことのようである。時間だけはたっぷりあるとしても、身体的経済的その他の制約が多いために、若いときほどには自由にふるまえないからだ。言い古された言葉だが、日々の「砂を噛むような現実」を前に、作者は正直にたじろいでいる。この正直さが掲句の味のベースであり、この味わいはどこまでも切なくどこまでも苦い。俳誌「梟」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


July 1172005

 生きていることの烈しき蛸つかむ

                           吉田汀史

国で育ち、あとは都会でしか暮らしたことがないので、海のものにはほとんど無知である。掲句の季語を迷いなく「蛸(たこ)」で夏期ととってしまったのも、その証拠のようなものだ。念のためにと思い手元の歳時記にあたってみたところ、季語「蛸」が見当たらないのには愕然とした。「迷いなく」思い込んでいたのは、どうやら芭蕉の有名な「蛸壺やはかなき夢を夏の月」が頭にあったからのようだ。だが、この句でも蛸は季語ではない。ただし調べてみると、蛸の水揚げ量が最も多いのは産卵期にあたる春から夏にかけてだそうだから、徳島在住の作者にとっての蛸漁は、春ないしは夏のイメージなのだろうと推察した次第だ。そんなふうだから、私はもちろん生きた蛸をつかんだことはない。けれども、掲句の言わんとするところはよくわかる。もはやぐたっとなっているかに見えた蛸をつかんだら、想像以上予想外の強力な「抵抗」にあい、たじたじとなると同時に、生命あるものの激しさに畏怖を覚えたのだった。私がそのことを肝に銘じたのは、中学一年のときだったろうか。教室で野ウサギの解剖をしている最中に、麻酔の切れたウサギが猛然と暴れ出したことがあった。思い出すだに冷たい汗の出てくる体験だが、生命の力とは強いものだ。だからこそ逆に、いざ生命が失われてみると、そのはかなさがより強く印象づけられるのだろう。俳誌「航標」(2005年7月号)所載。(清水哲男)

[ 訂正というか…… ]読者からのご教示もあり調べたところ、夏の季語に「蛸」を採用している歳時記がいくつかあることがわかりました。平凡社版、学研版、講談社版など。当歳時記は角川版(ときに河出版)に準拠しており、同版にはないのですが、作者の句風からみて「蛸」を季語としたほうが妥当と考え、夏期に分類することにしました。同様の問題はたまに出現し、悩まされるところです。


July 1072005

 お流れとなりし客間の日雷

                           澁谷 道

語は「日雷(ひかみなり・ひがみなり)」で夏、「雷」に分類。晴天時にゴロゴロッと鳴って、雨を伴わない雷だ。我が家にそんなスペースはないけれど、「客間」というのは普段は使うことのない部屋である。だから、いざ来客があるとなると、窓を開けて空気の入れ替えをしたり掃除をしたり、それなりに花を活けたりなどといろいろ準備をすることになる。それが先方のよんどころない事情のために、急に来られなくなってしまった。「お流れ」である。迎える準備をしただけではなく、とても楽しみにしていた来訪だったので、作者はがっかりしている。拍子抜けした目で客間を見回しているうちに、ときならぬ雷鳴が聞こえてきた。思わず外に目をやるが、よく晴れていて降りそうな気配もない。妙な日だな。立ちつくした作者に、そんな思いがちらりとよぎる。このときに「お流れ」と「日雷」は何の関係もない。ないのだが、この偶然の雷鳴は作者のがっかりした気持ちの、いわば小さな放心状態を増幅し補強することになった。つまり、ここでの雷鳴はドラマのBGMのような効果をもたらしているのである。人生に映画のようなBGMがあったら、どんなに面白いかと夢想することがあるが、私にこの句は、偶然の音を捉えて、そんな夢想の一端を現実化してみせたもののように写る。「俳句研究」(2005年7月号)所載。(清水哲男)




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