さて、都議選だな。投票したい政党からの立候補者無し。どこが勝っても保守化は進む。




20050703句(前日までの二句を含む)

July 0372005

 恙なき雲つぎつぎに半夏かな

                           廣瀬直人

語が「半夏(はんげ)」であるのは間違いないが、どの項目に分類するかについては、いささか悩ましいところのある句だ。というのも、単に「半夏」といえば一般的には植物の「カラスビシャク」のことを指すからである。だが、私の知るかぎり、この植物を季語として採用している歳時記はない。ならば当歳時記で新設しようか。でも、待てよ。歳時記をめくると、半夏が生えてくる日ということから「半夏生(はんげしょう)」という季語があって、こちらは全ての歳時記に載っている。今年は昨日7月2日がその日だった。そこで悩ましいのは、掲句の中味はカラスビシャクを知っていても、こちらの季語の意味を知らないと解けない点である。すなわち、「恙(つつが)なき雲」は明らかに、半夏生の日の天気によって米の収穫を占った昔の風習を踏まえている。梅雨の晴れ間の空に「つぎつぎに」生まれる白い雲を眺めながら、作者は昔の人と同じように吉兆を感じ、清々しい気持ちになっているのだ。だとすれば、何故「半夏かな」なのだろう。ここをずばり「半夏生」と押さえても字余りにもならないし、そのほうがわかりやすいし、いっこうに差し支えないのではないか。等々、他にもいろいろ考えてみて、一応の結論としては、句作時の作者の眼前には実際にカラスビシャクが生えていたのだと読んでおくことにした。つまり季語の成り立ちと同様に、句のなかでは植物の「半夏」にうながされて「半夏生」が立ち上がってきたのであり、はじめから「半夏生」がテーマではなかったということだ。ブッキッシュな知識のみによる句ではないということだ。便宜的に一応「半夏生」に分類はしておくが、あくまでも「一応」である。俳誌「白露」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


July 0272005

 夜店より呼びかけらるることもなし

                           大串 章

語は「夜店」で夏。夜店を「冷やかす」と言う。とくに何かを買うというのではなく、ぶらぶらと見て回りながら、その雰囲気を楽しむ。店の人と軽口を叩き合うのも楽しい。作者も冷やかして歩いている。「呼びかけら」れれば、冗談口の一つや二つは交わすつもりでいたのに、しかし「呼びかけらるることもなし」に終わってしまった。思い返せば今宵に限らず、いつだってそうだったなあという苦笑まじりの感慨がわく。私も、呼びかけられないクチだ。不思議なもので、逆にいつも「シャチョーッ」だの「オニーサン」だのと声をかけられる友人もいる。夜店の人からすれば、呼びかけやすいタイプとそうでないタイプの人があるのだろう。たとえ買ってくれそうにはなくても呼びかけて、その場の雰囲気を盛り上げてくれる客が直感的にわかるのだ。そういえば、放送の仕事での街頭インタビューでもそうだった。そのときの私は夜店の主人の立場にあったわけだが、だんだん経験を積んでゆくうちに、マイクを向けても大丈夫な人と駄目な人とが見た目でわかるようになってきた。駄目そうだなと思った人は、まずたいていが何も言ってくれない。たとえしゃべってくれても、面白くなかったり要領を得なかったりする。したがってこちらも能率を考えるから、呼びかけやすいタイプの人だけに近づくことになってしまう。これは何も私に限った話ではなく、ほとんどのインタビュアーやディレクターがそうしているはずだ。テレビやラジオのインタビューに答えている人は、いかにも一般の声を代表しているように聞こえるが、実は一般の人のほんの一部しか代表していない理屈になる。『大地』(2005)所収。(清水哲男)


July 0172005

 暇乞い旁百合を嗅いでいる

                           池田澄子

語は「百合」で夏。「旁」は「かたがた」。玄関先だろうか。「暇(いとま)乞い」に訪れた人が、たまたまそこに活けてあった「百合を嗅いでいる」。百合を嗅ぐ行為と暇乞いとは何の関係もないのだけれど、ほとんどの読者はこの情景を、ごく自然なものとして受け入れるだろう。訪ねてきた人を変わった人だなどとは、まず思わない。それはおそらく、シチュエーションは違っても、私たちは日常的にこの種の行為を自分で繰り返したり目撃したりしているからだと思う。何かをする「旁」、ほとんど無意識的に目的とは無関係な行為をプラスするのだ。何故だろうか。……と問うほうが実は変なのであって、人間は合目的的な行為だけを選択し実践しているわけじゃない。合理の世界から言えば、むしろ無駄な行為を多く実践することによって、人はようやく合理に近づけるのではなかろうか。句の人の合理は、むろん暇乞いにある。が、暇乞いとは通常別れ難い感情を内包しているから、単に事務的に口上を述べればよいというものではない。いくら言葉で別れ難さを表現したとしても、口上では表現できない感情の部分が残ってしまう。何かまだ、相手には伝え足りない。落ち着かない。そんな思いが、突然百合の香を嗅ぐという非合理的な行為につながった。心理学者じゃないので、当てずっぽうに言ってみているだけだが、これも人情の機微の不思議なところで、その一瞬を逃さずに詠んだ作者の目は冴えに冴えているとしか言いようが無い。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)




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