「子供より親が大事」(太宰治『桜桃』)。父の日には、ほろ苦い言葉だ。今日桜桃忌。




2005N619句(前日までの二句を含む)

June 1962005

 悲壮なる父の為にもその日あり

                           相生垣瓜人

語は「父の日」で夏。六月の第三日曜日。母の日に対して「父の日」もあるべきだというアメリカのJ・B・ドット夫人の提唱によって1940年に設けられた。俳句の季語として登場したのは戦後もだいぶ経ってかららしく、1955年(昭和三十年)に発行された角川版の歳時記には載っていない。克明に調べたわけではないが、手元の歳時記で見ると、1974年(昭和四十九年)の角川版には載っているので、一般的になりはじめたのはこのあたりからなのだろう。その解説に曰く。「母の日ほど一般化していないようだが、徐々に普及しつつある」。定着するのかどうか、なんとなく自信のなさそうな書きぶりだ。現在の角川版からは、さすがにこの一行は省かれているけれど、比較的新しい平井照敏の編纂になる河出文庫版(1989年)でも、筆は鈍い。「母も父もともに感謝されてしかるべきだが、父の日は母の日に比べてあまりおこなわれないようである。てれくさいのか、こわいのか、面倒なのか、父はなんとなく孤独な奉仕者である」。したがって掲載されている例句もあまりふるわず、そんななかで、掲句は積極的に「そうだ、父の日があってしかるべきだ」と膝を打っている点で珍しい。現代に見られるように、父親と友だちのようにつきあうなど考えられず、ただただ存在自体がおそろしかった時代の句だ。そんな父親との関係とも言えぬ関係のなかで、一家を背負った父の「悲壮」をきちんと汲み取っていた作者の優しい気持ちが嬉しい。悲壮の中味はわからないが、戦中戦後の困難な時代の父親のありようだろうと、勝手に読んでおく。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)他に所載。(清水哲男)


June 1862005

 薔薇の園少女パレット開けずじまひ

                           津田清子

語は「薔薇」で夏。「少女」は同行の女の子だろうか。あるいは、作者の少女期を思い出しての作かもしれない。いずれにしても、薔薇の花を描こうとせっかく用意していった絵の道具を、とうとう「開(あ)けずじまひ」にしてしまったと言うのである。あまりの薔薇の華麗さに気後れしたこともあるかもしれないが、むしろ出かける前に想像していた「薔薇の園」の様子が、予想とはかけ離れていたことのほうが大きかったのではあるまいか。たとえば、こんなに見物の人が多いとはだとか、花の種類の多さに戸惑ったとか……。それですっかり、描きたい気持ちが萎えてしまったのだ。「パレット」を持っていくくらいだから、絵には自信があるのだろう。だが、そういう場所で絵を描くためには、大きく言えばその場の環境全体に馴染むことが先決だ。絵の道具があっても、場所を味方にできないとどうにもならない。そしてこのことは何も絵に限ったことではないのであって、人生諸事においても、ついにパレットを開かずに終わることの何と多いことだろう。私なども、つい言うべきことを言いそびれたり、なすべきことを他日に延ばしてしまったりと、その場の雰囲気に負けてしまったことは、世間知らずの若年のときほど多かったように思う。何もしなかったこと、できなかったことの積み重ねも、また人生である。その意味においては、句の少女はやはり作者の若き日の姿だと読むほうが適当かなと、だんだんそんな気がしてきた。「俳句研究」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


June 1762005

 蝸牛天を仰いで笑い出す

                           吉田香津代

語は「蝸牛(かたつむり)」で夏。どう受け取ったら良いのか、半日ほど思いあぐねていた。想像の世界にせよ、蝸牛に「笑い」は結びつけにくいからだ。漫画化されたキャラクターを見ても、せいぜいが微笑どまりで、「笑い出す」様子にはほど遠い。私たちの常識的な感覚からすると、蝸牛は忍従の生き物のようである。ひたすら何かにじっと耐えていて、不平や不満もすべて飲み下し、日の当らないところで静かに一生を終えていくという具合だ。そんな蝸牛が、あるとき突然に「天を仰いで笑い出」したというのだから、ギクリとさせられる。しかもこの笑いは、どう考えても明るいそれではなく、むしろ悲鳴に近い笑いのようにしか写らない。今風の言葉で言えば、この蝸牛はこのときついに「切れた」のではなかろうか。そう考えると、実際に「切れた」のは蝸牛ではなく、作者その人であることに気がつき、ようやく句の姿が見えてきたように思えたのだった。いや、より正確に言えば、作者の何かに鬱屈した心が自身で切れる寸前に、蝸牛に乗り移って「切れさせた」のである。絶対に笑い出すはずのない蝸牛を思い切り笑わせることで、作者の抑圧された心情を少しは解きほぐしたかったのだと見てもよいだろう。と思って蝸牛をよくよく見直すと、もはやヒステリックな笑いは消えていて、おだやかな微笑に変わっている。……違うかなあ、難しい句だ。『白夜』(2005)所収。(清水哲男)




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