6・15を忘れるな。何もかもがなしくずしにされていく現在,忘れぬことも砦にはなる。




2005ソスN6ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1562005

 句集読むはづかしさ弱冷房車

                           松村武雄

語は「冷房」で夏。電車のなかで、どんな読み物を読もうともむろん自由だ。だが、電車のなかも一つの世間であるから、車内には車内なりの世間体というものがあるし、やはり多少は気になる。新聞や週刊誌でも開くページが気になるし、文庫本でもあまりくだけた内容のものは避けたりする。つまり、車内の多くの人は世間を意識して読み物なりページなりを広げているのだ。だから、作者の言うように「句集」を読むのはちと恥ずかしい。なんとなく、世間の目がいぶかしげにこちらを見ているような気がするからだ。詩集や歌集でも同じことで、実際私にも経験があるけれど、その種の本を広げた途端に、世間から孤立した感じがしてしまう。ひとりで勝手に「はづかしさ」を覚えてしまうのである。しかも作者が乗っているのは「弱冷房車」だ。よほど無頓着な人は別にして、冷房車を避けて数の少ない弱冷房車に乗るのは意識的である。その車両に乗りたくて、わざわざ選んで乗るわけだ。ということは、「弱」の乗客の間には、たまたま乗り合わせたとはいえ、一般の冷房車の雑多な客よりもいわば同類としての意識が高い。実際に他の客の意識がどうであれ、選んで乗った当人にはそう感じられる空間である。したがって、弱冷房車の世間は、そうでない車両のそれよりも濃密なのであって、そこで奇異に思われるかもしれない「句集」をあえて開いたのだから、これはもう「はづかしさ」と言うしかないのであった。とまあ、車中の読書にもいろいろと気を使うものでありマス。『雪間以後』(2003)所収。(清水哲男)


June 1462005

 目まといの如く前行く日傘かな

                           日高二男

語は「日傘」で夏。「目まとい(目纏い)」は、夏の野道などで目の前を飛び交いつきまとうユスリカなどの小虫を言い、これも夏の季語だ。「まくなぎ」とも。人同士がやっとすれ違えるほどの細い道を、作者は少し急ぎ足で歩いているのだろう。ところが前を行く「日傘」の女性が、右に左に揺れるように歩いていて、なかなか追い越せない。その彼女の様子がまるで「目まとい」のようだなと、ふと思いつき、苦笑している図だ。我が家の近所の歩道もかなり細いので、こういうことがまま起きる。よほど急いでいるときには「すみません」と声をかけざるを得ないけれど、たいていの場合には仕方なく二三歩離れてついていく。そのうちに気づいてくれるだろうと思い、むろん気づいてくれる人のほうが多いのだが、なかにはまったく背後の気配を感じない人もいたりして、苦笑が苛立ちになることもある。おそらく何か考え事をしているのか、一種の放心状態にあるのか、べつに鈍感というわけではないのだろうが、天下の往来にはいろいろな人が歩いているものだ。それにつけても細い道では、歩行者ばかりではなく自転車の人も加わるので、苛立ちどころか物理的な危険を感じることもある。夜中に背後から無灯火ですうっとやってきて、ベルも鳴らさずものも言わずにすり抜けていく奴がいる。先方にはこちらが「目まとい」なのだろうが、それとこれとは話が別だ。『四季吟詠句集19』(2005・東京四季出版)所載。(清水哲男)


June 1362005

 出来たての夏雲かじる麒麟かな

                           津田ひびき

く晴れた日の動物園だ。長い首を伸ばして、麒麟(きりん)が「出来たての夏の雲」をかじっている。「出来たての」、つまりいちばんふわふわとして美味しそうな雲を食べているのだ。真っ青な空に黄色い麒麟が印象的で、そういうことも含めて、ちょっと谷内六郎の一連の絵を想わせる。掲句も谷内の絵も、いわば童心で描いた世界として微笑する読者は多いだろう。ところで私はへそ曲がりのせいか、一口に童心の所産とまとめて、そこで終わってしまうことには違和感がある。当たり前のことながら、これらは子供の表現ではなく、れっきとした大人の発想による世界だからだ。大人である作者が、わざわざ子供の心をくぐらせて得た世界である。だから、谷内の絵がどこか哀調を帯びているのに似て、掲句もまた単純におおらかであるとは言い切れない。この麒麟、想像すればするほどに、悲しげな目をしているような感じがしてくる。このときに出来たての夏雲は、遠いふるさとの大空の雲なのではあるまいか。その雲にいま懸命に舌を伸ばしているのかと思えば、切なくなってくる。作者が故意に童心をくぐらせたのは、情景に無垢なまなざしを仮設することで、見えてくる真実を確かめたかったのだと思う。子供には絶対に見えるはずのない真実が、かつて子供であった者には童心のフィルターを通して見えてくるという皮肉な回路は、やはり切ないなと言うしかない。『玩具箱』(2005)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます