ガードレールの金属片。人為的だとすると相当に多人数の仕業だ。早く謎を解いてくれ。




2005年6月4日の句(前日までの二句を含む)

June 0462005

 白玉やばくちのあとのはしたがね

                           吉田汀史

語は「白玉」で夏。花札か麻雀か、はたまた競馬競輪の類か。あるいは、もっと大きな危険を伴う金銭的な取引なのか。いずれにしても、作者は「ばくち」で損をしてまった。落胆というよりも、茫然としながら、冷たい「白玉」を口にしている。純心の象徴のような白玉と、かたや無頼の極のようなばくちとの取り合わせ。無頼の果ての白玉は、さぞや目にも舌にもしみたことだろう。そして、手元に残ったのはわずかな金だ。だが、この貴重な金を「はしたがね」と言い捨てるところに、作者の負けん気があらわれていて、私などは凄いなと思ってしまう。侠気の美学とでも言おうか、そういえばいわゆる博才のある人のほうが、金銭を「はしたがね」とか「あぶくぜに」とかと言いなしているようだ。ゼニカネに執着してばくちを打つのではなく、あくまでも勝負にこだわって打つ姿勢を強調するのである。勝負が第一で、ゼニカネは単に後からついてきたりこなかったりするだけの話というわけだろう。からきし博才のない私には、言葉だけでもとうていついていけない。それはともかく、こうした侠気の美学が表舞台に登場することはなかなかないが、しかし、私たちの生活の底流にはいつも脈々と流れているのである以上、もっと詠まれてよいテーマの一つであると思う。それに白玉ばかりをいくら見つめても、この句以上にその純白を描くことは難しそうだ。俳誌「航標」(2005年6月号)所載。(清水哲男)


June 0362005

 慷慨のうた世にすたれ瓜の花

                           大串 章

語は「瓜の花」で夏。胡瓜、南瓜、マクワウリ、糸瓜やひょうたんなど、ひょうたん科瓜類の花の総称だ。「慷慨(こうがい)」は、世の中や自分の運命を憤り嘆くこと。悲憤慷慨。作者が「慷慨のうた」というとき、どのあたりのうたをイメージしたのだろうか。典型には、たとえば戦前の「青年日本の歌」(三上卓・作詞作曲)がある。「汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛び 混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く」。三上卓は五・一五事件の決起将校の一人で、この歌は「昭和維新の歌」として、当時の若者たちに広く歌われたという。また広い意味では、「起て、飢えたるものよ」の「インターナショナル」なども慷慨歌に入れてよいだろう。そして時が過ぎ、いまやそうした歌はすっかりすたれてしまった。思い出す人も、もう少ない。それはあたかも、黄色い強烈な色彩で咲きながら、濃い緑の葉の奥のほうでひっそりと萎えている「瓜の花」を思わせる。と同時に、瓜の花は昨日も今日もそして明日も、凡々として過ぎてゆく日常の時間を暗示している。平凡な日々に「慷慨」の気はありえない。もとより作者は乱世を好むものではないけれど、「慷慨のうた」に血をわかすような若者の意気が沈滞してしまったことにも、一抹の寂しさを覚えているのではなかろうか。私の「瓜の花」は、戦中戦後の食糧難をしのいだときに、いやというほど目にした南瓜の花だ。そのころにはまだ、少年たちにすら「慷慨のうた」があった。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


June 0262005

 なんとなく筍にある前後ろ

                           早野和子

語は「筍(たけのこ)」で夏。俳句ならではの、とぼけた味わい。こういう句を、俳諧味があると言うのかしらん。おっしゃる通りに、その気で見ると、たしかに「前後ろ」があるような気がする。それがどうしたというものではないけれど、しかし、そのように見えてしまうこと自体は、人の認識についての興味深い問題をはらんでいると思った。筍に前後ろがあると感じるのは、実際に前後ろのある他の事物からの類推だろう。例えば筍の皮を衣服と見立てれば、襟元のように見えるほうが前であるし、筍を人体と思いなせば、平らなほうが背中に見えるので後ろということになる。むろん、筍に前も後ろもないことはわかっているのだが、私たちは日頃、ついそれがあるように見ているのが普通なのではあるまいか。そんな気がする。だとすれば、そのように見てしまうのは何故なのだろうか。おそらくそれは、私たちがそなえている秩序感覚のようなものに他を合わせたいからである。簡単に言うと、人は感性のいわば引き出しを持っており、見るもの聞くものを整理しては引き出しにしまっておく。全てを整理整頓できるわけではないけれど、可能なかぎりそれをしたいとは願っているようだ。つまり、そうしないと、身辺に不可解な事物が溢れかえってしまうわけで、不安にさいなまれかねない。野の花を摘んで来て、花瓶に挿す。このときに、ちょちょっと前後ろを整える。このことと筍に前後ろを見ることとは、同じ整理の感性に発しているのだ。『美作』(2005)所収。(清水哲男)




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