メールにはジャンク、電話にはセールス。ったく、もう…。少し静かにしてくれないか。




2005ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2052005

 信号をまつまのけんか柿若葉

                           伊藤無迅

語は「柿若葉」で夏。着眼点の良い句だ。まずは、シチュエーションが可笑しい。そのへんに柿の木があるくらいだから、そう大きくはない横断歩道だろう。信号を待つ人の数もまばらだ。そこへ「けんか」をしながら歩いてきた二人がさしかかり、赤信号なので足は止まったのだが、口喧嘩は止まらない。お互いに真っ赤な顔で言い争いつつも、ちらちらと信号に目をやったりしている。激した感情は前へ前へと突っ走っているのに、身体は逆に足止めをくっているのだ。その心と身体の矛盾した様子は、傍らにいる作者のような第三者からすると、とても滑稽に見えたにちがいない。しかも、周辺には柿の木があり、若葉が陽光を受けて美しく輝いている。こんなに美しくて平和な雰囲気のなかで、なにも選りに選って喧嘩をしなくてもよさそうなものを……。と、第三者ならば誰しも思うのだが、しかし当人たちにはそうはいかないところが、人間の面白さだと言うべきか。二人の目に信号は入っても、柿の木には気がついてもいなさそうである。口喧嘩を周囲の人たちに聞かれていることにすら頓着していないのだから、風景なんぞはまったくの関心外にあるのだ。すなわち私たちは、平常心にあるときは美しい自然に心を溶け込ませられるが、激したり鬱屈したりしていると、それはとうてい望めない存在であるということなのだろう。哀れな話だが、仕方がない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 1952005

 廃屋の内なる闇やさつき燃ゆ

                           山崎茂晴

語は「さつき(杜鵑花)」で夏。句景色は明瞭だ。誰も人の住んでいない(あるいは、誰も使用しなくなった)「廃屋」の周辺に、この夏も例年の通りに「さつき」が燃えるように咲いた。花の明るさが派手であるだけに、暗い廃屋との対比が鮮やかに感じられ、目に強い印象で焼きつけられる。そこで「内なる闇」に思いをいたせば、さまざまな想像がわいてきて、読者によっては廃屋にまつわる物語性を感じることもあるだろう。手法的に言って、景物のコントラストを強く意識させるべく詠まれた句だ。このように、多くの俳句は取り合わせの妙を大切にするから、おのずと作者は両者のコントラストの強弱ゃ濃淡を調節しながら詠むことになる。そしてその調節の具合は、変なことを言うようだけれど、デジカメのフルオート撮影のように、結局のところ作者各人の持って生まれた気質に依っているようである。デジカメにはそれぞれに癖があり、オートで撮るとよくわかる。あるメーカーのものはコントラストがいつも強く出るし、別のメーカーのものだといつも控えめであったりする。むろんどちらが良いというものではなく、使い手の好みに属する問題だ。そんな目で掲句の作者の詠みぶりを見ると、さつきと廃屋のコントラストの強さもさることながら、そこにもう一押し「内なる闇」を置いたことで、物事や物象の輪郭鮮明を好む人であるらしいと知れる。たった十七文字での表現ながら、作者の気質はかなり正確に反映されるということだ。面白いものです。『秋彼岸』(2003)所収。(清水哲男)


May 1852005

 無職は無色に似て泉辺に影失う

                           原子公平

語は「泉」で夏。作者は出版社勤務(戦前は岩波書店、戦後は小学館)の長かった人だから、停年退職後の感慨だろう。「無職」と「無色」は語呂合わせ的発想だが、言われてみれば通じ合うものがある。社会通念としては、定年後の無職は常態であるとはいうものの、当人にしてみればいきなり社会の枠組みから外に出されたようなものなので、虚脱感や喪失感は大きい。ひいてはそれが己の存在感の稀薄さにもつながっていき、軽いめまいを覚えたときのように一瞬頭が白くなって、好天下「泉辺」にあるべきはずの自分の影すらも(見)失ってしまったと言うのである。むろんこれは心境の一種の比喩として詠まれてはいるのだろうが、しかし同時に、ある日あるときの実感でもあったろうと読める。作者とはだいぶ事情が違うのだけれど、私は二十代のときにたてつづけに三度失職した。いずれも会社都合によるものだったとはいえ、無職は無職なのであって、その頼りなさといったらなかった。若かったので「そのうちに何とかなるさ」と思う気持ちと、どんどん減ってゆく退職金に悲観的になってゆく気持ちとが絡み合い、それこそ頭が真っ白になってしまいそうで辛かった。社会や世間の枠組みから外れることが、どんなことなのかを思い知らされた者として掲句を読むと、何かひりひりと灼けつくような疼きを覚える。このときの作者には、停年まできちんと勤め上げたキャリアとは無関係に、無職の現実が重くのしかかっていたのだと思う。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)




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