今夕,久留米より帰宅。一度ゆっくり九州をまわってみたいと思いながら、今回も駄目。




2005ソスN5ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1552005

 大学も葵祭のきのふけふ

                           田中裕明

日は「葵祭(あおいまつり)」。京都は上賀茂神社と下鴨神社の祭礼だ。古くは賀茂祭と言い、昔は単に祭といえばこの祭を指したという。不思議な魅力を持った句だ。「大学も」の「大学」は作者の在籍した京大を言っているのだろうが、作者よりも二十年ほど前の学生であった私の実感からすると、葵祭がこのように大学の雰囲気に影響したことはなかったと思う。アルバイトで参加する連中を別にすれば、ほとんど話題にすらならなかった。どう想像してみても、作者が学生だった頃も同じだったのではないかと思われる。京都に在住経験のない人ならば、さもありなんと微笑しそうだけれど、大学というところは京都に限らず、散文的な空間である。それに若い多くの学生たちには、古くさい祭のことなどよりも、もっと他に好奇の対象はいくらだってあるのだから、いかに有名な祭でも、その色に染まるなんてことはまずないのである。しかし作者は、だからこそと言うべきか。あえてたかだか百年ほどの近代の産物である大学に、千年の都の風を入れてみたかったのではなかろうか。せっかく伝統の土地にありながら、その風を入れずに機能するだけだなんて、なんともったいない。もっとゆったりと構えて、葵祭に染まるのも、またよろしいのではないか。ならば染めてみようというところに、この句の発想の原点があるような気がする。すなわち、作者は掲句のような大学で学びたかった。「大学も」の「も」には、そうした作者の願いが込められているのだと読む。『山信』(1979)所収。(清水哲男)


May 1452005

 生きのいい頭あつめてもむみこし

                           落合水尾

輿渡御の景。句は「祭」に分類しておく。俳句で「祭」は夏祭のことだ。平仮名を多用しているのは、神輿を揉むダイナミックな様子を表現する意図からだろう。明日は東京・神田祭の宮入で、九十基もの神輿が練り回るというから、人、人、人の波となる。まさに「生きのいい頭」たちの晴れ舞台だ。岡本綺堂が明治期の東京の祭について書いているが、昔は実にすさまじかったらしい。「各町内の若い衆なる者が揃いの浴衣の腰に渋団扇を挿み、捻鉢巻の肌脱ぎでワッショイワッショイの掛け声すさまじく、数十人が前後左右から神輿を揉み立て振り立てて、かの叡山の山法師が京洛中を暴れ廻った格で、大道狭しと渦巻いて歩く」。そして、これからが大変だ。「殊に平生その若い衆連から憎まれている家や、祭礼入費を清く出さぬ商店などは、『きょうぞ日頃の鬱憤ばらし』とあって、わざとその門口や店先へワッショイワッショイと神輿を振り込み、土足のままで店へ踏み込む。戸扉を毀す、看板を叩き落とす、あらん限りの乱暴狼藉をはたらいて、またもや次の家へ揉んでゆくという始末」というのだから、ダイナミックもここに極まれり。さすがに警察も黙っていられなくなり、この文章が書かれたころには、神輿を若い衆に揉ませることは禁じられ、「白張りの仕丁が静粛に」かつぐことになっていたようだ。それがまた、いつの間にやら「生きのいい頭」たちの手に戻り、戦後のひところはまた静かになった時期もあったけれど、やはり祭は「静粛」では面白くない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 1352005

 白服にプラットフォームの端好む

                           田中灯京

語は「白服」で夏、「夏服」に分類。今日から「白服」に着替えたのだろう。男は女性ほどひんぱんに色調の異なる服には替えないので、着替えた当座はなんとなく照れくさいものだ。べつに誰が見ているわけでもないのに、あまり人の目につかないようなところを選びたくなる。そんな感じで、作者も自然に「プラットフォームの端」に足が向いたのだった。が、端っこに立っていても、どうも落ち着かない。面映いような気持ちだけが募ってくる。わかりますねえ。私はそういうときでなくても端が好きで、ひとりのときはいつも最後尾から乗車する。駅のどのあたりで待つかは、性格によるんだぜ。大学時代に友人からそう言われて、はっとしたことを思い出した。友人の説によれば、内向的な人間、引っ込み思案の人間は、たいてい端に立つ。それも先頭ではなく、最後尾のほうの端だということで、見事に当っているなと合点したのだった。それからしばらくというもの、ならば引っ込み思案を少しでも直そうとして、真ん中へんで待つことに努力したのだけれど、あえなく挫折。どうも、端でないと落ち着けなかったからだ。そういえば、別の友人で、いつも同じ位置に乗り合わせた女性と結婚したヤツもいたっけ。同じ性格だから、大いに気が合ったのだろう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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