英語のスペリングが覚束なくなってきた。変なサイトの変な英語を読みすぎたせいかな。




2005ソスN5ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1052005

 とととととととととと脈アマリリス

                           中岡毅雄

語は「アマリリス」で夏。ギリシャ語で「アマリリス」は「輝かしい」という意味だそうだが、そのとおりに輝かしく健康的で、そしてとても強い、先日見た鈴木志郎康さんの映画のなかに、三年ぶりだったかに庭に咲いたこの花が出てきたが、そう簡単には生命力を失うことはないらしい。一方、作者は病いを得て、少なくとも健康とは言えない状態のなかにいる。そんな状態が、もうだいぶ長いのだろうか。ときおり脈の様子をみるのが、習い性になっているのだ。今日もまた、いつものように手首に指先を当ててみると、「とととと」「とととと」と、かなり早く打っている。健康体であれば、もう少しゆっくりした調子で「とくとく」「とくとく」となるところなのに……。そしてこのとき、作者の視界にあるのはとても元気なアマリリスだ。病気の身には、人間はもとよりだが、草木や花などでも、健康的なものには敏感になる。老いの身が若さをまぶしく感じるのと同様で、元気に触れると、どうしようもないほどに羨望の念を覚えてしまう。「とととととととととととと」、表現は一見諧謔的ではあるけれど、それだけ余計にアマリリスの元気と溶け合えない作者の気持ちが増幅されて伝わってくる。ところで、この花の花言葉は「おしゃべり」だそうだ。病人には、もっとしっとりとした花でないと、刺激が強すぎる。『椰子アンソロジー・2004』(2005・椰子の会)所載。(清水哲男)


May 0952005

 美しき人の帯せぬ牡丹かな

                           李 千

語は「牡丹(ぼたん)」で夏。柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に出ている元禄期の句だ。えっ、なんだい、これはっ。と、一瞬絶句。牡丹と美人との取り合わせは良いとしても、選りにも選ってしどけなくも帯をしていない女を立たせるとは。いわゆる狂女かしらんと想像をめぐらして、なんだか不気味な句だと思ったら、そうではなかった。宵曲曰く、「こういう句法は今の人たちには多少耳遠い感じがするかも知れないが、この場合強いて目前の景色にしようとして、帯せぬ美人をそこに立たせたりしたら、牡丹の趣は減殺されるにきまっている。句を解するにはどうしてもその時代の心持ちを顧慮しなければならぬ」。なるほど。となれば、現代の句は「今」の時代の心持ちを顧慮して読まなければならないわけだが、その前に「今」の俳句が「今」の心持ちを詠んでいるのかどうかが大いに気になる。「今」の時代というよりも、「今」の俳壇の心持ちで詠まれている句が多すぎないか。おっと、脱線。したがって、掲句の帯せぬ美人とは、すなわち牡丹の艶麗な様子を言ったものである。「立てば芍薬、坐れば牡丹」と言い古されてきたが、元禄期の心持ちでは牡丹は美人の立ち姿だったことになる。当然のことながら、美人の尺度もその時代の心持ちによって決められるのだから、この帯せぬ人の体型は、「今」の美人のそれとは大いに異なっていたのだろう。(清水哲男)


May 0852005

 旧姓で呼ばるる目覚め明易き

                           宮城雅子

語は「明易(あけやす)し」で夏、「短夜(みじかよ)」に分類。夜明けが早くなってきた。最近では、4時を少し過ぎると明るくなってくるので、早起きにはありがたい。そんなある朝、作者は「旧姓」で呼ばれて目が覚めた。夢の中で呼ばれたとも取れるが、私は現実に呼ばれたと取った。一泊のクラス会か何かで、この日は早立ちだったのだろう。そろそろ起きなければと呼びかけた人は、昔の友人だから、何のためらいもなく自然に旧姓で声をかけたのだ。が、呼びかけられたほうは、眠さも手伝って、一瞬意識が混乱したにちがいない。既に夜がしらじらと明け初めているなかで、だんだん覚醒してくると、そこにはかつての友人の微笑を浮かべた顔があった。時間の歯車が懐かしい少女時代に戻してくれたような気がして、まだ眠さは残っているものの、まったく不快ではない。結婚によって、姓が変わった女性ならではの世界だ。したがって、多くの男には体験できないわけだが、急に旧姓で呼びかけられると、どんな気持ちがするものなのだろうか。男だと、それこそクラス会で、いきなり昔のあだ名で呼ばれたりすることがあるけれど、ちょっとあれに似ているのかもしれない。似てはいるのだろうが、しかしもっとインパクトは強そうだ。などと、あれこれ想像を膨らませてくれる一句だった。『薔薇園』(2004)所収。(清水哲男)




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