そうか今日は普通の日だ。三日休んで一日出勤。これで経済が回ってくれればよいのに。




2005ソスN5ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0252005

 田植ぐみ子が一人ゐて揺りゐたり

                           若色如月

夏茱萸
語は「田植ぐみ」。この言い方は知らなかったが、句景からして「苗代茱萸(なわしろぐみ)」とも言う「夏茱萸」のことだろう。秋に実をつけるのが「秋茱萸」だ。私が俳句を愛好する理由のひとつは、ときどきこうした懐かしい光景に出会えるからである。二十年も三十年も忘れてしまっていた世界が、すっと眼前に立ち現われてくる喜びは、俳句ならではのものだ。少年時代の思い出にそくして言えば、掲句は一家総出での田植えの一齣である。昔の田植えはとにかく手間がかかったから、夜明けとともに田圃に入り、日暮れ時まで植えつづけた。自分の家の真ん前の田に出るのならばともかく、遠く離れた田圃だと、昼食をとりに家に戻るなどという余裕は無い。だから、文字通りに一家総出で出かけていく。あぜ道に篭を置いて、なかに赤ん坊を寝かせておくなども当たり前の情景だった。年寄りから小学生まで、植えられる人間はみんな田圃に入ったものだった。そんなわけで、句の「子」はまだ手伝いのできない小さい子だと思う。退屈してきたので、近くの山薮のなかに入って「ぐみ」を取っているのだ。田圃のなかから眺めやると、葉がくれの小さい子の姿に重なって、ちらちらと赤い実が揺れている。ただそれだけのことながら、かつての農村に育った者には、ふるいつきたいくらいの懐かしい光景だろう。写真は、このサイトより拝借。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0152005

 笈も太刀も五月にかざれ紙幟

                           松尾芭蕉

語は「幟(のぼり)」で夏。端午の節句に立てる布や紙製の幟である。現在では鯉のぼりが圧倒的に優位にあるが、芭蕉の頃には逆だった。あるいは、鯉のぼりはまだ無かったかもしれない。いかにも五月らしい威勢の良い句だ。『おくのほそ道』の旅で、現在の福島県瀬上町に佐藤庄司(藤原秀衛の臣で、息子二人は義經に殉じた)の旧跡を訪ねた折りの作。かたわらの医王寺に「入りて茶を乞へば、爰に義經の太刀辨慶が笈をとゞめて什物とす」とある。すなわち、折りしも五月なのだから、紙のぼりといっしょに弁慶の笈(おい)も義經の太刀も節句の飾り物にせよと言ったわけだ。しかも、この日は偶然にも「五月朔日のことなり」ということで、ますます威勢がよろしい。昔の読者はみな「ううむ」と感心したのだったが、後に曾良の随行メモが発見されて、これらがフィクションであることが明らかになる。芭蕉は義經の太刀も辨慶の笈も実際には見ていないし、日付も五月一日ではなくて二日だった。このようなフィクションは『おくのほそ道』には他にもあり、ノンフィクションとしては信用できない書き物ではあるけれど、しかし私は、自作を生かすためのこの程度のフィクションは気にしない。もっと大ボラを吹いて楽しませてほしいくらいだ。でも、二日の出来事を「一日」のことだとわざわざ特記するところあたりで、芭蕉はちょっと気がさしたかもしれないなあ。同時代の井原西鶴ほどには、押しが強くなかった人のようだ。蛇足ながら、正岡子規は鯉のぼりが嫌いだったらしい。「定紋を染め鍾馗を画きたる幟は吾等のかすかなる記憶に残りて、今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に翻りぬ」と慨嘆している。(清水哲男)


April 3042005

 妹の嫁ぎて四月永かりき

                           中村草田男

年度ということもあって、「四月」という月は活気もあるがあわただしくもある。一般的な認識として、四月は短いと感じるのが普通だろう。だがこれに個人的な事情が加わると、いつもの四月とは違って、掲句のように永く感じる人も出てくる。妹が嫁いだ。いつも側にいた人がいなくなった。めでたいことではあるけれど、予想していた以上の喪失感を覚えて、作者は少しく滅入ってしまったのだ。それに昔のことだから、これからはそう簡単に妹と会うことはできない。何かにつけて、ふっと妹を思い出し、淡い寂しさを感じる日々がつづいた。この句には、兄という立場ならではの寂寥感がある。というのも、妹の結婚準備の段階からして、両親ほどにはしてやることもない。手をこまねいているうちに、自分以外の者の手でどんどん段取りは進められ、ろくに妹と話す機会もないうちに挙式となり、気がつけば傍らから消えてしまった。そういう立場なので仕方がないとはいえ、妹の結婚に実質的には何も関与していない自分であるがゆえに、どこか取り残されたような気持ちにもなっている。永い四月だったなあと嘆息するのも、よくわかるような気がする。さて、今年の四月も今日でおしまいですね。読者諸兄姉にとっては、どうだったでしょうか。私には例年通り、やはり短く感じられた四月でありました。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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