明日から十連休という方も。当方無関係なれど何故かそわそわさせられる。何故だろう。




2005ソスN4ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2842005

 たんぽぽに普通列車の速さかな

                           奥坂まや

語は「たんぽぽ(蒲公英)」で春。福知山線での大事故の後だけに、余計に沁みいってくる句だ。二通りに解釈できると思う。作者が電車に乗っている場合と、通過する電車を眺めている場合と。乗っているのであれば、いわゆる「鈍行」ゆえの気楽さと楽しさが読み取れる。ローカル線であれば、なおさらだ。見るともなく窓外を見やっていると、線路沿いに点々と黄色い花が咲いているのに気がついた。「ああ、たんぽぽだ。春だなあ」。そう感じただけで、心が温かくなってくる。乗っていない場合には、たんぽぽを近景にして、遠くをゆっくりと行く電車を眺めている。いかにも牧歌的というのか田園的というのか、ちょっと谷内六郎の世界に通じていくような眺めだ。私は後者と取りたいけれど、読者諸兄姉は如何。いずれにしても、たんぽぽに猛スピードは似合わない。一面に咲き乱れている菜の花あたりだと、新幹線のスピードでも似合いそうな気もするが、たんぽぽは黄色いといっても小さくて地味な花なので、あまりのスピードだと視界から省略されかねないからだ。したがって、句の手柄は「速さかな」の止めにあるだろう。「速さ」という言葉は抽象的でありながら、しかし句では逆に具体として読者に印象づけられるのである。なかなかの技巧の冴え。実作する方なら、おわかりになるだろう。『縄文』(2005)所収。(清水哲男)


April 2742005

 井の底に人声のする暮春かな

                           福田甲子雄

語は「暮春(ぼしゅん)」、「暮の春」に分類。春も終わりに近いある日、「井の底に人声」がしている。井戸浚(いどさら)えをしているのだろう。俳句で「井戸浚」あるいは「井戸替」といえば夏の季語だが、実際はとくだん夏に決まったものではない。夏の季語としているのは、その昔盆の前に水をきれいにしておく習慣や行事があったからだ。七夕の日が多かったようである。井戸の水を干して、底に溜まった塵芥を人の手でさらう。その人の声がときおり地上に聞こえてくるわけだが、あれはなんとも不思議な気がするものだ。私も、子供の頃に何度か体験した。ふだんは聞こえてこない地の底からの声であり、それが細い筒状の井戸に反響して上がってくるので、少しく浮世離れした感じがするのである。といっても決して不気味なのではなく、むしろのんびりした長閑な声とでも言うべきか。それが往く春の風情に無理なく溶け込んできて、おそらく作者はこのとき微笑を浮かべていたに違いない。ご存知の方も多いだろうが、作者は一昨日(2005年4月25日)未明に亡くなられた。享年七十七。俳人には長命の方が多いので、なんだかとてもお若く思われてしまう。つつしんでお悔やみ申し上げます。合掌。『白根山麓』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


April 2642005

 煙草すう男に寒き春の昼

                           大井雅人

語は「春(の)昼」。のどやかで、ちょっと眠りを誘われるような春の昼だ。男が煙草をすっている。すっているのは、もしかすると作者当人かもしれない。すっている場所は、屋外でも室内でもかまわない。句の背景には、最近の声高な嫌煙権の主張があるのだと思う。愛煙家はどこに行っても、禁煙を強いられる。だからすうとなると、申し訳程度に設置された喫煙所ですわざるを得ないわけだ。なかには、その一画だけを透明なビニールのシートで覆った喫煙所さえある。中ですっていると、なんだかさらし者になっているようで、愉快ではない。が、喫煙所が建物のなかにあればまだよいほうで、ビルの裏口に灰皿一個なんてところまである。すいたい連中は、高い階からでも降りてきてすうのだが、これまた哀れな気分もいいところだ。だから「男に寒き」とは、気温の問題ではなく、そうした肩身の狭い思いを言っているのだ。暖かい春の昼ですら、たばこをすうときは「(うそ)寒い」のである。私は「キャスター・マイルド」を日に一箱くらいすうから、掲句はこう解釈するしかないのだが、何か別の解釈ができるのだろうか。それにつけても不思議に思うのは、煙草は身体に毒だという人が、車には平気で乗って所構わず排気ガスを蒔き散らしている現実だ。排気ガスは、ニコチンなどよりもよほど毒性が少ないとみえる。いまの私は、いささか不機嫌である。「俳句」(2005年5月号)所載。(清水哲男)




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