ラジオで松任谷由実が「気温が二層になってる」と話してた。確かに寒暖の差が激しい。




2005ソスN4ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2542005

 暗算の指動きたる春疾風

                           横山香代子

語は「春疾風(はるはやて)」。春の強風、突風のこと。私はコンタクトをしているので、毎春のように泣かされている。目に微小なゴミが入るために、痛くて涙が出てくる。泣きたくはないのだけれど、周囲の人が見て泣いているように見えるのは、不本意だが仕方がない。格好悪い。掲句を読んだとき、もしかすると作者もコンタクトをしているのではないかと思った。そして暗算が得意な人だろうとも。結論から言えば、この句は突風に身構える句だ。その身構えが、決してやり過ごすことのできない相手に対してのように写るので、原因はコンタクトかもしれないと思った次第である。もちろん「春疾風」と「暗算」とには、何の関係もない。が、コンタクトをしていると、歩きながらでも瞬間的意識的に目を閉じることもあるわけで、その状態がかつて得意とした潜在的な暗算の世界につながったとしても不思議ではない。暗算は、目を閉じたほうが雑念が減ってやりやすい。目を閉じて、読み上げられる数字を頭の中にイメージした算盤(そろばん)に置いていく。そして、指は算盤玉を弾くように実際に動かすのである。容赦なく、まさに疾風のように読み上げられ襲いかかる数字をしのいでいたかつての経験が、なかば本能的に春の突風に対しても頭をもたげてきてしまった。他人には理解不能でも、当人にだけはよくわかるとても自然で「不自然な行為」なのだ。そのことに気がついて、思わず苦笑いをして……。そんな諧謔の句であり、局面は違っても、誰にもそうした種類の行為には覚えがあるだろうから、読者の微苦笑を誘うというわけだろう。「俳句界」(2005年5月号)所載。(清水哲男)


April 2442005

 ていれぎや弘法清水湧きやまず

                           吉野義子

語は「ていれぎ」で春。ただし、ほとんどの俳句歳時記には載っていない。先日実家を訪ねた折り、母と昔話をしているうちに「もう一度『ていらぎ』が食べたいねえ」という話になった。で、何か「ていらぎ」の句はないものかと調べてみたら、この句に出会った。山口県では「ていらぎ」と呼びならわしていたが、句の「ていれぎ」と同じものだ。現在でも愛媛県松山地方では「ていれぎ」と言い、松山市指定の天然記念物になっているから、ご存知の読者もおられるだろう。「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」(正岡子規)。アブラナ科の多年草で、清流に育つ美しい緑色の水草だ。正しくは大葉種付花と言うらしく、クレソンに似ているが別種である。物の本には必ず「刺身のつま」にすると書いてあるけれど、私の子供の頃には大量に穫ってきて鍋で茹で、醤油をばしゃっとかけておかずにしていた。若芽を生で噛むとほのかな辛みがあるが、茹でると抜けてしまうのか、小さい子でも食べることができた。食糧難の時代だったからか、これがまた美味いのなんのって、そこらへんの野菜の比ではなかった。まさに野趣あふれる草の味だった。そんなわけで掲句を見つけたときには、一瞬「食べたいな」と思ってしまったが、もちろん食欲とは無関係な句だ。「弘法清水」は新潟県西蒲原郡巻町竹野町にあって、弘法大師が水の乏しい良民のため地面に錫を突き立てて掘ったという伝説に基づく。行ったことはないのだが、「ていれぎ」との取り合わせでその清冽な水のありようがわかるような気がする。ああ「ていらぎ」を、もう一度。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 2342005

 焼肉を食ひにあつまる朧かな

                           吉田汀史

語は「朧(おぼろ)」で春。「食ひにあつまる」「朧かな」と切るのではなく、「食ひにあつまる朧かな」とゆっくりと読み下したい。前者だと朧の宵にあつまるの意であり、実際にはそうであったかもしれないが、読み下すと「あつまること」それ自体が「朧」だということになる。むろん、両者の情感の差は大きい。私が後者と読むのは、作者の年輪を思うからだ。若い人の句であれば、あつまることがすなわち朧だという認識はまずないだろうから、切って読まざるを得なくなる。それに若者だと焼肉を食べることがあつまる大きな目的になるけれど、高齢者にはそのような意識は多く希薄だ。焼肉のためにあつまるというよりも、食べ物などは焼肉でも何でもよろしいわけで、とにかくあつまる楽しみのほうが優先するようになるのである。あくまでも、焼肉は脇役であるにすぎない。だから「朧」なのであり、この意識を拡大してゆけば、あつまる人々それぞれの人生も朧であり夢のようにも写ってくるだろう。かつての健啖家ももう多くは口にせず、あつまったメンバーの醸し出す雰囲気のほうをこそむしろ味わうというとき、ぼんやりとそれぞれの身を包む束の間の楽しさには無上のものがあると同時に無常の哀感もある。一見なんでもないような句に思えるかもしれないが、凡百の色付きの朧句よりも、よほど朧の本義に適った詠み方になっている。俳誌「航標」(2005年4月号)所載。(清水哲男)




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