何かを調べるために行ったサイトから好奇心が次々に飛び火して,収拾がつかなくなる。




2005ソスN4ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2442005

 ていれぎや弘法清水湧きやまず

                           吉野義子

語は「ていれぎ」で春。ただし、ほとんどの俳句歳時記には載っていない。先日実家を訪ねた折り、母と昔話をしているうちに「もう一度『ていらぎ』が食べたいねえ」という話になった。で、何か「ていらぎ」の句はないものかと調べてみたら、この句に出会った。山口県では「ていらぎ」と呼びならわしていたが、句の「ていれぎ」と同じものだ。現在でも愛媛県松山地方では「ていれぎ」と言い、松山市指定の天然記念物になっているから、ご存知の読者もおられるだろう。「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」(正岡子規)。アブラナ科の多年草で、清流に育つ美しい緑色の水草だ。正しくは大葉種付花と言うらしく、クレソンに似ているが別種である。物の本には必ず「刺身のつま」にすると書いてあるけれど、私の子供の頃には大量に穫ってきて鍋で茹で、醤油をばしゃっとかけておかずにしていた。若芽を生で噛むとほのかな辛みがあるが、茹でると抜けてしまうのか、小さい子でも食べることができた。食糧難の時代だったからか、これがまた美味いのなんのって、そこらへんの野菜の比ではなかった。まさに野趣あふれる草の味だった。そんなわけで掲句を見つけたときには、一瞬「食べたいな」と思ってしまったが、もちろん食欲とは無関係な句だ。「弘法清水」は新潟県西蒲原郡巻町竹野町にあって、弘法大師が水の乏しい良民のため地面に錫を突き立てて掘ったという伝説に基づく。行ったことはないのだが、「ていれぎ」との取り合わせでその清冽な水のありようがわかるような気がする。ああ「ていらぎ」を、もう一度。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 2342005

 焼肉を食ひにあつまる朧かな

                           吉田汀史

語は「朧(おぼろ)」で春。「食ひにあつまる」「朧かな」と切るのではなく、「食ひにあつまる朧かな」とゆっくりと読み下したい。前者だと朧の宵にあつまるの意であり、実際にはそうであったかもしれないが、読み下すと「あつまること」それ自体が「朧」だということになる。むろん、両者の情感の差は大きい。私が後者と読むのは、作者の年輪を思うからだ。若い人の句であれば、あつまることがすなわち朧だという認識はまずないだろうから、切って読まざるを得なくなる。それに若者だと焼肉を食べることがあつまる大きな目的になるけれど、高齢者にはそのような意識は多く希薄だ。焼肉のためにあつまるというよりも、食べ物などは焼肉でも何でもよろしいわけで、とにかくあつまる楽しみのほうが優先するようになるのである。あくまでも、焼肉は脇役であるにすぎない。だから「朧」なのであり、この意識を拡大してゆけば、あつまる人々それぞれの人生も朧であり夢のようにも写ってくるだろう。かつての健啖家ももう多くは口にせず、あつまったメンバーの醸し出す雰囲気のほうをこそむしろ味わうというとき、ぼんやりとそれぞれの身を包む束の間の楽しさには無上のものがあると同時に無常の哀感もある。一見なんでもないような句に思えるかもしれないが、凡百の色付きの朧句よりも、よほど朧の本義に適った詠み方になっている。俳誌「航標」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


April 2242005

 春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり

                           西東三鬼

和十一年(1936年)の句。現代であれば、差別語云々で物議をかもすに違いない。ただし前書きに「びつことなりぬ」とあるから、自分のことも含めて言っているわけで、厳密には差別語が使用されていることにはならないだろう。現今のマスコミではあれも駄目これも駄目と非常に神経質だが、前後の脈絡などは無視して、ただ単語のみに拘泥するのはいかがなものか。意識が甘くとろけるような「春ゆふべ」、見渡せば「あまたのびつこ」がそこらじゅうを次々に「跳ね」て行き過ぎてゆく。そしてここには彼らだけが存在し、他の人は誰もいないのである。しかも「跳ね」ている人たちは嬉々としているようでもあって、ずいぶんと奇妙な幻想空間と言おうか、一種狂的なイメージの世界を描き出している。この情景に、理屈をつけて解釈できないわけではない。完璧な肉体の所有者はどこにもいないのだから、人はみな「びつこ」のようなものなのだなどと……。だが、私はそのように理に落して観賞するよりも、むしろイメージをそのまま丸呑みにしておきたい。丸呑みにすることで伝わってくるのは「春ゆふべ」の咽せるがごとき濃密な空間性であり、そのなかにどっぷりと浸されていることの自虐的な心地よさだろう。急に訪れた身体的不自由を嘆くのではなく、むしろ毒喰わば皿までと開き直れば、狂気の世界に身を沈めたくなる気持ちは奇妙でも不思議でもあるまい。詩人の橋本真理は三鬼句や生涯について「転落を"上がり"とする奇妙な双六を見るようだ」と書いているが、掲句にもよく当てはまっている。『旗』(1940)所収。(清水哲男)




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