ゴールデンウイークも間近。みなさん、働くように遊ぶことだけは止めておきましょう。




2005ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342005

 焼肉を食ひにあつまる朧かな

                           吉田汀史

語は「朧(おぼろ)」で春。「食ひにあつまる」「朧かな」と切るのではなく、「食ひにあつまる朧かな」とゆっくりと読み下したい。前者だと朧の宵にあつまるの意であり、実際にはそうであったかもしれないが、読み下すと「あつまること」それ自体が「朧」だということになる。むろん、両者の情感の差は大きい。私が後者と読むのは、作者の年輪を思うからだ。若い人の句であれば、あつまることがすなわち朧だという認識はまずないだろうから、切って読まざるを得なくなる。それに若者だと焼肉を食べることがあつまる大きな目的になるけれど、高齢者にはそのような意識は多く希薄だ。焼肉のためにあつまるというよりも、食べ物などは焼肉でも何でもよろしいわけで、とにかくあつまる楽しみのほうが優先するようになるのである。あくまでも、焼肉は脇役であるにすぎない。だから「朧」なのであり、この意識を拡大してゆけば、あつまる人々それぞれの人生も朧であり夢のようにも写ってくるだろう。かつての健啖家ももう多くは口にせず、あつまったメンバーの醸し出す雰囲気のほうをこそむしろ味わうというとき、ぼんやりとそれぞれの身を包む束の間の楽しさには無上のものがあると同時に無常の哀感もある。一見なんでもないような句に思えるかもしれないが、凡百の色付きの朧句よりも、よほど朧の本義に適った詠み方になっている。俳誌「航標」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


April 2242005

 春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり

                           西東三鬼

和十一年(1936年)の句。現代であれば、差別語云々で物議をかもすに違いない。ただし前書きに「びつことなりぬ」とあるから、自分のことも含めて言っているわけで、厳密には差別語が使用されていることにはならないだろう。現今のマスコミではあれも駄目これも駄目と非常に神経質だが、前後の脈絡などは無視して、ただ単語のみに拘泥するのはいかがなものか。意識が甘くとろけるような「春ゆふべ」、見渡せば「あまたのびつこ」がそこらじゅうを次々に「跳ね」て行き過ぎてゆく。そしてここには彼らだけが存在し、他の人は誰もいないのである。しかも「跳ね」ている人たちは嬉々としているようでもあって、ずいぶんと奇妙な幻想空間と言おうか、一種狂的なイメージの世界を描き出している。この情景に、理屈をつけて解釈できないわけではない。完璧な肉体の所有者はどこにもいないのだから、人はみな「びつこ」のようなものなのだなどと……。だが、私はそのように理に落して観賞するよりも、むしろイメージをそのまま丸呑みにしておきたい。丸呑みにすることで伝わってくるのは「春ゆふべ」の咽せるがごとき濃密な空間性であり、そのなかにどっぷりと浸されていることの自虐的な心地よさだろう。急に訪れた身体的不自由を嘆くのではなく、むしろ毒喰わば皿までと開き直れば、狂気の世界に身を沈めたくなる気持ちは奇妙でも不思議でもあるまい。詩人の橋本真理は三鬼句や生涯について「転落を"上がり"とする奇妙な双六を見るようだ」と書いているが、掲句にもよく当てはまっている。『旗』(1940)所収。(清水哲男)


April 2142005

 よく見れば薺花さく垣ねかな

                           松尾芭蕉

語は「薺(なずな)の花」。春の七草の一つで、実の形が三味線のバチに似ていることから、俗に「ぺんぺん草」あるいは「三味線草」と言うが、こちらの名前のほうがポピュラーだろう。日頃見慣れている「垣ね」に何気なく目をやったら、いつもの趣とはちょっと違うことに気がついた。何やら小さな白いものが混じっている。そこで「よく見た」ところ、薺の花だったと言うのだ。見たままそのまんまを描いているだけなので、思わず「それはわかりましたが、それがどうかしたのですか」と聞きたくなる読者もいそうである。少なくとも、かつての私はそうだった。が、よくよく繰り返し考えるうちに、この句は薺の花を発見する以前の垣根の変化への気づきを書いたのだと思えてきたのだった。つまり「よく見れば」の前の「よく見ない」状態のときに、ふっといつもとは違う風情を感じたそのことを詠んだのだと……。句に書かれていることは、その気づきが外れていなかったことの証明書みたいなものに過ぎなく、作者はむしろそれ以前の段階での感覚的な世界をこそ指さしたかったのではあるまいか。すなわち、季節の移ろいとともに微細に変化する自然に、いちはやく気づいたことへの喜びと、もう一つはむろん待ちかねた春到来の喜びとが重ねあわされているのだ。わざわざ「よく見れば」を初句に置いたのは、まだ「よく見ない」ときに感じた嬉しい心持ちの強さをあらわしているのだと思う。(清水哲男)




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